スペインのサンチェス連立政権は2026年9月29日、深刻化する住宅危機に対応するため、借家人保護を大幅に強化する2つの政令を閣議決定しました。最大の柱は、賃貸契約が満了した際に、貸主側に正当な理由がない限り自動的に更新される制度の導入です。これにより、契約は事実上無期限化され、借家人は家賃の急騰や一方的な契約終了の不安から解放されることになります。あわせて、2028年末までに契約期間が終了する既存の賃貸契約について、借家人の要請があれば延長する措置も盛り込まれました。政令にはこのほか、脆弱な世帯の立ち退きを2030年まで禁止する措置も含まれており、今後議会での承認手続きが必要となります。マドリードやバルセロナなど大都市圏での家賃高騰が社会問題化する中、極めて踏み込んだ市場介入策となります。
背景:深刻化する住宅危機と政治的圧力
今回の政令は、スペインが直面する深刻な住宅事情を背景にしています。特に大都市では、投機資金の流入や観光客向けの短期賃貸(民泊)の増加により、長期居住者向けの物件供給が減少し、家賃が市民の所得に見合わない水準まで高騰しています。近年では、契約更新のタイミングで家主が家賃を数十パーセント引き上げるか、退去を求めるケースが頻発し、社会不安の一因となっていました。87歳の女性マリカルメンさんが長年住んだ家からの立ち退きを迫られた事例は、この問題の象徴として全国的に報じられ、政府への対策を求める世論を喚起しました。こうした状況下で、連立政権の一翼を担う左派連合スマル(Sumar)や借家人組合は、より抜本的な借家人保護策を強く要求しており、今回の政令はそうした政治的圧力の産物でもあります。
政令の核心:契約の「無期限化」と「延長」
今回の措置は、大きく分けて2つの仕組みで構成されています。一つは、今後新たに満了を迎える契約の「自動更新」です。スペインの標準的な賃貸契約は、個人家主の場合は5年、法人の場合は7年で満了しますが、新制度では、家主が自己または近親者の居住用に物件を必要とするなどの例外を除き、契約は自動的に更新されます。これは、家主がより高い家賃で新しい借家人を見つけるために契約を終了させることを事実上不可能にするもので、「契約の無期限化」とも言える革命的な変更です。もう一つは、2028年12月31日までに満了する既存の契約について、借家人の要請に応じて2年間延長する措置です。これは、コロナ禍以降も導入されてきた時限的な保護措置を拡大するもので、当面の生活の安定を確保する狙いがあります。さらに、年間家賃更新時の引き上げ率を0%に凍結する措置も含まれています。
市場への影響と所有者の反発
借家人にとっては朗報である一方、不動産所有者や市場関係者からは強い反発が予想されます。所有者側から見れば、資産活用の自由度が著しく制限されることになります。市場原理に基づいた家賃設定が困難になるため、賃貸経営の採算が悪化し、新規の賃貸物件供給が滞る、あるいは既存の物件が売却に回されることで、かえって賃貸市場が縮小するのではないかという懸念が指摘されています。特に、年金などを補うためにアパート一室を貸し出しているような個人の小規模家主にとっては、大きな打撃となり得ます。政府は、こうした副作用を抑制するため、借家人向けの税制優遇措置なども発表していますが、市場の冷え込みをどこまで防げるかは不透明です。今回の介入が、安定した賃貸市場の形成につながるか、それとも供給を細らせる結果を招くか、専門家の間でも意見が分かれています。
欧州における住宅政策の潮流
住宅価格の高騰は欧州共通の課題であり、各国政府は様々な対策を模索しています。ドイツのベルリンでは、家賃の上限を5年間凍結する「家賃天井」法が導入されましたが、後に憲法裁判所で違憲と判断されるなど、急進的な政策は法的な壁に直面することもあります。フランスのパリでも、特定の「緊張地域」において家賃の上限規制が設けられています。しかし、スペインの今回の措置は、単なる価格統制にとどまらず、契約期間そのものに踏み込んだ点で、欧州の中でも特に強力な借家人保護策と言えます。これは、住宅を単なる市場商品ではなく、基本的な「権利」と捉える考え方が、スペインの現政権内で主流であることを示しています。この政策が成功すれば、欧州の他の国々が追随する可能性も考えられます。
日本の読者への解説
今回のスペインの政策は、日本の読者にとって興味深い比較対象となります。実は、日本の借地借家法は、貸主からの契約更新拒絶には「正当事由」を要求しており、これが認められるハードルは非常に高いため、普通賃貸借契約は事実上、更新され続けるのが通常です。その意味で、スペインは日本の制度に近づいた、と見ることもできます。しかし、両国の背景は大きく異なります。日本が人口減少と空き家問題に直面しているのに対し、スペインは都市部への人口集中と供給不足という真逆の課題を抱えています。日本の賃貸借制度が貸主と借主の長期的な関係を前提に発展してきたのに対し、スペインではより短期で流動的な契約が一般的でした。今回の改革は、その文化を根底から変えようとする試みです。日本にとっての教訓は、法制度が借家人を保護していても、礼金・敷金・保証人といった独自の商慣習が依然として入居の障壁となっている点です。住宅を市場に委ねるのか、それとも権利として公的に保障するのか。スペインの急進的な実験は、日本における住宅政策のあり方を考える上でも重要な示唆を与えています。













