マドリードで87歳の女性マリカルメンさんが、投資ファンドによって自宅から強制的に立ち退かされた一件が、スペイン全土に大きな衝撃を与えています。多数の機動隊が投入され、高齢女性が住まいを追われる映像は、サンチェス政権が公約に掲げてきた「住宅の権利」の脆弱性を突きつけました。この事態を受け、世論に押された政府は、これまで議会の支持確保を優先して棚上げにしてきた住宅関連の緊急令について、来週の閣議での承認を目指す方針へと急遽転換しました。しかし、法案の成立には連立パートナーや複数の少数政党の協力が不可欠であり、その道のりは依然として不透明です。

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機動隊に囲まれた87歳、政治を動かす

今回の政令承認を加速させる直接の引き金となったのは、マドリード中心部で起きたマリカルメンさん(87歳)の強制立ち退きでした。彼女が長年住んできたアパートの所有者が投資ファンドに代わり、立ち退きを求められていました。当日は、住民の抗議を抑えるために多数の機動隊が出動し、その物々しい雰囲気の中で高齢の女性が家を追われる姿が大きく報じられました。この光景は、2008年の金融危機後に多発した住宅差し押さえの記憶を呼び覚まし、ソーシャルメディアを通じて瞬く間に拡散、大きな社会的怒りを生み出しました。「住宅は今期最大のテーマ」と公言してきたサンチェス首相にとって、この一件は極めて大きな政治的打撃となりました。ニューヨーク訪問中の首相も事態を「社会の悲劇」と認め、政治的な対応を約束せざるを得ない状況に追い込まれたのです。

停滞していた「住宅緊急令」の中身

政府が承認を急ぐ政令案は、数ヶ月前から準備されていたものの、議会での可決の見通しが立たないため停滞していました。その中核となるのは、社会的弱者の強制立ち退きを阻止するための「保護シールド」です。具体的には、立ち退き命令が出ても、自治体が代替住居を確保するまで4ヶ月間は執行を停止。さらに、その後も代替住居が見つかるまでは、所有者ではなく自治体が費用を負担する形で立ち退きを猶予するという案が盛り込まれています。これは、立ち退きを無期限に禁止すべきだとする左派と、所有者の権利を主張する右派やカタルーニャの地域政党「フンツ」との妥協点を探る内容です。その他にも、賃貸契約の2年間自動延長や、規制を逃れるために横行している短期賃貸や部屋貸しへの規制強化も含まれています。

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連立政権内の対立と議会の複雑な力学

法案が停滞していた背景には、まず社会労働党(PSOE)と急進左派連合スマール(Sumar)からなる連立政権内の温度差がありました。スマール側は、まず閣議で政令を承認し、それを既成事実として議会での交渉を進めるべきだと主張。一方、サンチェス首相率いるPSOEは、議会での否決を恐れ、可決に必要な支持を確保できるまで閣議決定を先送りする慎重な姿勢を貫いていました。また、少数与党であるサンチェス政権は、法案を通すためにカタルーニャやバスクの地域政党、そして左派ポデモスなどの協力が不可欠です。しかし、例えばフンツは所有者の権利保護を強く求める一方、ポデモスは土地法の規制緩和につながる条項に強く反対するなど、各党の要求は正反対であり、「円を四角にする(不可能なことをする)」ような困難な交渉が続いていたのです。

法案分割も視野に、問われる政権の実行力

マリカルメンさんの一件で、PSOEも戦略転換を迫られました。現在、政府内では複数の選択肢が検討されています。一つは、スマールが主張するように、準備されている政令案を丸ごと閣議決定し、議会での説得に全力を挙げるというもの。もう一つは、より現実的な選択肢として、法案を分割する案です。最も世論の支持が高く、幅広い合意形成が期待できる「社会的弱者の立ち退き防止」に関する部分だけを切り離して先に成立させ、土地法改正など意見の割れる項目は後の交渉に委ねるという戦略です。これにより、少なくとも「政府は行動した」という姿勢を国民に示すことができます。しかし、住宅問題を抜本的に解決するための包括的な改革が骨抜きにされるという批判も免れません。どの道を選ぶにせよ、この問題はサンチェス政権の政権運営能力と実行力を測る試金石となります。

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日本の読者への解説

スペインの住宅問題は、日本のそれとは異なる構造を持っています。日本では持ち家志向が根強い一方、スペインでは賃貸が一般的であり、特に都市部では家賃の高騰が深刻な社会問題です。2008年の金融危機以降、経営難に陥った銀行から住宅ローン債権を安価で買い取った「投資ファンド(vulture fund)」が巨大な大家となり、利益を最大化するために家賃を大幅に引き上げたり、立ち退きを強行したりするケースが社会問題化しました。マリカルメンさんの事例もこの文脈上にあります。また、スペインの政治は多党制が定着しており、連立政権が少数政党の協力を得ながら法案を一つひとつ成立させていくのが常態です。今回の住宅令をめぐる混乱は、社会的要請の強い政策であっても、多様な利害を代表する政党間の交渉がいかに困難であるかを示しています。日本でも高齢者の貧困や住宅確保の問題は存在しますが、スペインのように「強制立ち退き」がデモや政治闘争の直接的なテーマになることは稀です。一人の高齢女性の悲劇が国政を動かす力を持つという事実は、住宅を「個人の資産」としてだけでなく、「社会が保障すべき権利」と捉える価値観の違いを浮き彫りにしています。

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