スペインのペドロ・サンチェス首相がバルセロナを訪問した2026年9月28日、会場となった国際会議場の前には数千人(主催者発表2万人、地元警察発表2千人)の市民が集結し、深刻化する住宅危機への抜本的な対策を求める大規模な抗議デモを行った。マドリードで起きた高齢女性マリカルメンさんの強制立ち退き事件をきっかけに首都で始まった抗議活動に呼応し、デモ隊が要求するのは「マリカルメン法」の制定だ。投機目的の立ち退きの即時停止や家賃の半額化などを盛り込んだ急進的な内容で、政府が検討している生ぬるい妥協案を「パンくず(migas)は要らない」と一蹴。進歩派を掲げるサンチェス政権の少数与党という構造的な弱さと、市民の切実な要求との間の深い溝を浮き彫りにした。なお、デモ当日の夜、マドリード市役所の仲介によりマリカルメンさんが自宅に戻れることで合意が成立したと報じられた。
「マリカルメン法」とは何か?一人の女性が象徴する危機
今回の抗議行動の中心にある「マリカルメン法」とは、政府が提示した法案ではなく、住宅権利擁護団体が突きつけた要求リストの通称だ。その名は、マドリードで強制立ち退きに遭った高齢女性マリカルメンさんに由来する。彼女の事例は、社会的弱者が投機目的の不動産取引の犠牲となるスペインの住宅危機の象徴として、SNSを通じて瞬く間に拡散された。しかし、これは氷山の一角に過ぎない。デモでは、当時78歳のブランカさんが88ユーロの家賃滞納を理由に2024年に追い出された事例や、立ち退きから約5ヶ月後に二人の娘を残して自ら命を絶ったオルガさんの名も叫ばれた。こうした悲劇を受け、市民団体が要求する「マリカルメン法」には、① vulture fund(投機ファンド)による立ち退きの即時停止、②賃貸契約の自動更新義務化、③家賃の50%引き下げ、④大手家主が保有する70万戸の空き家の収用、といった急進的な内容が含まれている。これは単なる政策提言ではなく、生存権をかけた叫びとなっている。
進歩派政権への失望と怒り
サンチェス首相率いる社会労働党(PSOE)と左派連合スマールの連立政権は「進歩派」を自任している。2023年には歴史的とされる住宅法を成立させ、家賃抑制などの措置を導入した。しかし、多くの市民団体は、同法は抜け穴だらけで投機を止められず、「大失敗だ」と断じる。今回のデモで繰り返された「進歩派政府はどこにいるんだ?」というシュプレヒコールは、政権への深い失望を物語っている。活動家たちは、政府が近く閣議決定する予定の新たな住宅令が、議会での承認を得るために内容が骨抜きにされた「見せかけの法令」になることを危惧している。彼らが政府の提案を「パンくず」と呼ぶのは、問題の構造にメスを入れず、小手先の対策でお茶を濁そうとしていることへの痛烈な批判である。
少数与党のジレンマとカタルーニャ独立派の影
サンチェス政権が抜本的な対策を打ち出せない背景には、少数与党であるという構造的な弱点がある。法案や政令を可決するには、カタルーニャやバスクの地域政党の協力が不可欠だ。特に、カタルーニャ州の保守系独立派政党「ジュンツ(Junts)」は、サンチェス首相の首相信任と引き換えに様々な見返りを得ており、政権の重要法案のキャスティングボートを握る。しかし、ジュンツは伝統的に財産権を重視し、市場介入には批判的な立場だ。実際、同党は今回の住宅令に関し「住宅問題と関係のない事柄を紛れ込ませるな」と政府に釘を刺しており、急進的な要求には難色を示している。左派の連立パートナーであるスマール(旧ポデモス)と市民団体の要求、そして議会運営に不可欠なジュンツの要求との間で、サンチェス政権は板挟みになっている。この政治的駆け引きの結果、最も犠牲になるのは住宅を失う人々だという懸念が、デモ参加者の怒りを増幅させている。
投機マネーと観光化という構造的問題
個別の立ち退き事例の背後には、スペインの大都市が抱えるより大きな構造的問題が存在する。それは、国際的な投機ファンドによる不動産の買い占めと、過度な観光化(ツーリストフィケーション)だ。2008年の金融危機以降、経営破綻した銀行から不良債権として安く放出された住宅資産を海外のファンドが大量に取得。それらを短期的な利益目的で転売したり、長期居住者を追い出して家賃を吊り上げたり、あるいは短期宿泊施設に転用したりする動きが加速した。特にバルセロナのような世界的な観光都市では、住宅が市民の生活の場としてではなく、利潤を生む金融商品として扱われる傾向が強い。デモ参加者が、家主への減税といった政府の支援策を「投機家への公金移転だ」と批判するのはこのためだ。彼らが求めるのは、住宅を市場原理と投機の対象から切り離し、憲法が保障する「居住の権利」として再確立することに他ならない。
日本の読者への解説
スペインの住宅危機は、日本の読者にとっても対岸の火事ではない。東京など大都市での家賃高騰や、海外ファンドによる不動産投資の活発化は日本でも見られる現象だ。しかし、両国には決定的な違いがある。日本では借地借家法により、正当な事由なく貸主が契約更新を拒絶することは極めて困難であり、店子の権利が強く保護されている。一方、スペインでは契約期間が満了すれば、家主は比較的容易に立ち退きを要求できるため、住民は常に不安定な立場に置かれやすい。この法制度の違いが、スペインで「強制立ち退き」が深刻な社会問題となる背景にある。また、スペインにおけるPAH(住宅ローン被害者の会)のような市民団体の影響力の強さも特筆すべきだ。彼らは物理的に立ち退きを阻止し、政治を動かす原動力となっている。住宅を「商品」と見るか、「権利」と見るか。スペインで起きている激しい対立は、日本社会が今後直面するかもしれない課題を先取りしていると言えるだろう。キャッシュレス化が進む中で、住居を失うことが社会からの完全な排除に繋がりかねないという現実も、共通の教訓として受け止めるべきである。













