マドリード中心部で、87歳のマリカメン・ロペスさんが半世紀以上暮らしたアパートから強制的に退去させられる映像が、スペイン全土に衝撃を与えました。2018年にアパートを購入した投資ファンド「Urbagestión」が、彼女が母親から引き継いだ古い賃貸借契約の無効を訴えた裁判の末の出来事です。第一審は女性の居住権を認めたものの、上級審がこれを覆し、最高裁も上告を棄却。警察がドリルでドアを破壊し、車椅子の高齢女性を運び出す様子は、法の厳格な適用と社会的倫理の乖離を白日の下に晒しました。この一件は単なる個別の退去劇ではなく、スペインが抱える住宅投機、司法のあり方、そして政治の責任を問う象徴的な事件となっています。
半世紀にわたる契約と司法判断の変転
この問題の根源は、1956年にマリカメンさんの父親が結んだ「旧借家法」に基づく賃貸借契約にあります。これは店子に極めて有利な、事実上の終身契約でした。1960年に父親が亡くなると母親が、そして2005年に母親が亡くなるとマリカメンさん自身が契約を引き継ぎ(subrogación)、当時の家主もこれを黙認していました。しかし2018年、不動産会社を経てこのアパートを投資ファンド「Urbagestión」が安価で購入したことで状況は一変します。「店子付き(bicho付き)」物件を安く買い叩き、住民を追い出して価値を吊り上げる手法です。ファンド側は法外な家賃引き上げを要求した後、契約の無効を求めて提訴。2022年、マドリードの第一審裁判所は、13年間にわたり家主側がマリカメンさんの居住を認めてきた事実を「自己の行為に反する主張は許されない」という法理に基づき、彼女の勝訴としました。しかし、マドリード州高等裁判所はこの判断を覆します。1994年の借家法改正に伴う経過措置を厳格に解釈し、マリカメンさんが契約を引き継げる期間は母親の死後2年間の2007年までで失効していた、と結論づけたのです。最高裁もこの件を「議論の余地なし」として門前払いし、退去が確定しました。
政治の空白が生んだ悲劇
マリカメンさんの退去は、防げた可能性がありました。スペインではコロナ禍以降、経済的に脆弱な人々の強制退去を一時的に停止する「社会的保護(escudo social)」と呼ばれる時限措置が導入されていました。しかし、この措置は2026年2月に失効。サンチェス政権(社会労働党とスマールの連立)は延長を試みましたが、国民党(PP)、Vox、そしてカタルーニャのJuntsの反対により議会で否決されました。マリカメンさんの退去が全国的なニュースとなり、世論の批判が高まった後、政府は慌てて新たな退去停止令を閣議決定する方針を示しましたが、彼女にとっては手遅れでした。また、住宅政策の主要な権限を持つマドリード州(国民党・アジュソ政権)やマドリード市も、問題がメディアで大きく報じられるまで具体的な支援に動かなかったとして、その対応の遅れが厳しく批判されています。政治的な対立と行政の不作為が、セーフティネットに穴を開けた典型例と言えます。
「ハゲタカ・ファンド」と住宅危機
この事件の背景には、スペイン、特にマドリードやバルセロナのような大都市で深刻化する住宅問題があります。住宅が「住む権利」の対象ではなく、金融商品、投機の対象となっている現実です。Urbagestiónのような、いわゆる「ハゲタカ・ファンド(fondo buitre)」は、債務超過の個人や企業から不動産を安く買い取り、短期的な利益を最大化することを目的とします。マリカメンさんのケースでは、月500ユーロ程度の家賃に対し、ファンド側はまず1,650ユーロ、最終的には2,650ユーロへの引き上げを要求したと報じられています。これは彼女の年金収入では到底支払えない額であり、明らかに退去を目的とした交渉でした。スペイン憲法は「尊厳ある適切な住居への権利」を定めていますが、現実には市場原理が優先され、特に高齢者や低所得者層が居住の安定を脅かされています。今回の事件は、その構造的な問題を一人の高齢女性の悲劇を通して社会に突きつけました。
法解釈における司法の役割
第一審と上級審で判断が180度分かれたことは、司法の役割についても議論を呼んでいます。第一審の裁判官は、長年の事実関係を重視し、形式的な法の適用よりも当事者間の信頼関係を保護する判断を下しました。一方、上級審と最高裁は、法律の条文を文字通りに、厳格に適用することを選びました。どちらも法的には可能な解釈ですが、結果は大きく異なります。国連の「適正な住居に関する特別報告者」は、マドリードの裁判所は国際人権規約に基づき退去を停止すべきだったとの見解を示しましたが、スペインの国内法において国連の勧告に拘束力はありません。この一件は、裁判官が法を社会の文脈の中でどう解釈し適用するのか、その裁量のあり方と社会的責任について、改めて問いかけるものとなりました。特に社会的弱者が関わる事案において、司法が最後の砦として機能し得たのか、厳しい目が向けられています。
日本の読者への解説
このスペインでの出来事は、日本にとっても決して他人事ではありません。第一に、高齢者の居住問題です。日本でも、持ち家でない高齢者が賃貸住宅への入居を断られたり、低年金で家賃の支払いに苦しんだりするケースは増加しています。マリカメンさんのように、長年住み慣れた家を失うことは、経済的な困窮だけでなく、地域社会からの孤立や心身の健康悪化に直結します。第二に、住宅の金融商品化です。近年、日本の都市部でも海外の投資ファンドによる不動産買収が活発化しています。日本の借地借家法はスペインに比べて借主保護が手厚いとされますが、それでも「追い出し」に近い手法が問題化することもあります。住宅が純粋な投資対象と見なされる傾向が強まれば、日本でも同様の悲劇が起こり得ます。スペインで起きたこの一件は、法制度が社会の現実から乖離したとき、そして政治がセーフティネットの綻びを放置したときに何が起きるかを示す、重い教訓と言えるでしょう。













