マドリードで起きた一人の女性「マリカarmen」さんの強制立ち退き事例が大きな社会的反響を呼び、スペインのサンチェス政権は家賃規制や立ち退き制限を強化する新たな政令の策定を急いでいます。しかし、少数与党である社会労働党(PSOE)とスマールの連立政権がこの政令を議会で可決するには、カタルーニャ独立派政党「フンツ・パル・カタルーニャ(Junts)」の賛成が不可欠です。所有者の権利を擁護する中道右派のフンツは、家主への税制優遇や、家賃を払えない弱者の賃料を国家が肩代わりする案を要求。これはテナント保護の強化を求める政権内の左派や他の支持政党とは相容れない要求であり、交渉は難航しています。この一件は、スペインの住宅問題の深刻さと、少数与党政権が常に直面する政治的綱渡りの現実を浮き彫りにしています。
背景:社会の圧力と脆弱な政権基盤
今回の交渉を加速させた直接のきっかけは、マドリードで起きた「マリカarmen」という女性の強制立ち退きです。投資ファンドが所有する物件からの立ち退きに多くの市民が抗議し、その様子が全国的に報じられたことで、住宅問題への政治的対応を求める世論が一気に高まりました。スペインでは2023年に初の包括的な「住宅法」が成立しましたが、家賃規制の適用は自治体の判断に委ねられるなど、その実効性には課題が残っていました。今回の新政令は、この法律をさらに強化し、特に経済的弱者の立ち退きを制限することを目的としています。しかし、サンチェス首相の政権基盤は極めて脆弱です。議会で過半数を持たず、法案を一つ通すごとに、カタルーニャやバスクの地域政党との厳しい交渉を強いられます。中でも7議席を持つフンツは、連立政権の枠外にいながら、その動向が全ての法案の成否を左右する「キングメーカー」となっており、今回の住宅政令でもそのキャスティングボートを最大限に活用しようとしています。
対立する利害:テナント保護か、所有者の権利か
交渉の核心にあるのは、テナントの居住権と不動産所有者の財産権という、根本的に対立する二つの権利のバランスをどう取るかという問題です。連立政権を組むスマールや、政権を閣外から支えるポデモス、カタルーニャ共和主義左派(ERC)、EHビルドゥといった左派勢力は、家賃の上限設定の厳格化や、経済的に脆弱な世帯の強制立ち退きを原則禁止するなど、テナント保護を最優先するよう求めています。一方、フンツは伝統的にカタルーニャのブルジョワジーや中小の不動産所有者を支持基盤としており、彼らの主張は全く逆です。フンツが政府に提示しているのは、家主に対する所得税の控除拡大や、住宅購入のための貯蓄口座への優遇措置、さらには立ち退き手続きの迅速化といった、所有者側に立った政策パッケージです。彼らにとって、過度なテナント保護は「不法占拠(okupación)」を助長し、所有者の財産権を侵害するものと映っています。
交渉の焦点:立ち退き問題をめぐる妥協案
両者の隔たりを埋めるため、政府が模索している妥協案の具体像が報じられています。現在の法律では、経済的弱者であるテナントの立ち退き命令が出た場合、自治体が代替住居を探すために最大4ヶ月間、手続きが停止されます。しかし、4ヶ月経っても代替住居が見つからなければ、立ち退きは実行されてしまいます。これに対し、フンツは「立ち退きを禁止する代わりに、滞納された家賃を国が家主に支払うべきだ」と主張しています。政府が検討している中間案は、この両者を取り入れたものです。つまり、4ヶ月の猶予期間が過ぎても代替住居が提供されない場合、立ち退きは引き続き停止されるものの、その時点から代替住居が見つかるまでの間の家賃相当額を、家主ではなく、公的機関(国や自治体)が負担するという仕組みです。これにより、テナントの居住権を守りつつ、家主が一方的に損失を被る事態を避ける狙いがあり、交渉の着地点となる可能性が探られています。
構造的課題:「カギを握る政党」としての地域政党
この住宅政令をめぐる交渉は、単なる政策論争にとどまらず、現在のスペイン政治の構造そのものを象徴しています。中央政府の政策が、カタルーニャやバスクといった特定地域の政党の意向に大きく左右されるという現実です。フンツはカタルーニャの独立を最終目標としていますが、日々の国政においては、中央政府との交渉を通じて自らのイデオロギーに沿った経済・社会政策を実現しようと動きます。今回の場合、住宅政策という全国的な課題に対して、カタルーニャの中小資産家層の利益を代弁する形で介入しています。これは、サンチェス政権が発足する際に、首相就任と引き換えにカタルーニャ独立派指導者への恩赦法制定を約束した取引の延長線上にあります。政権を維持するためには、常に地域政党への譲歩が求められ、その結果として生まれる政策は、一貫したビジョンに基づくものではなく、政治的取引の産物となりがちです。この構造は、スペインが安定した統治を確立する上での大きな足かせとなっています。
日本の読者への解説
スペインの住宅問題をめぐる攻防は、日本の読者にとっても示唆に富んでいます。第一に、住宅問題の性質の違いです。日本が「空き家問題」という供給過剰の側面を抱えるのに対し、スペイン、特にマドリードやバルセロナのような大都市では、家賃高騰と住宅不足という「アフォーダビリティ(支払い能力)の危機」が社会問題の中心です。これにより、財産権と居住権の対立が先鋭化し、政治の主要な争点となっています。第二に、政治構造の違いです。安定多数を持つ政権運営が常態である日本と異なり、スペインでは少数与党政権が地域政党との連立や閣外協力でかろうじて成り立っています。その結果、わずか数議席の政党が国全体の重要法案の行方を決める「キングメーカー」となり、政策が常に妥協と取引の産物となる力学は、日本の政治力学とは大きく異なります。最後に、社会の反応です。スペインでは一人の市民の立ち退きが全国的な政治問題に発展するように、個人の困難が社会全体の課題として共有され、政治を動かすエネルギーになることがあります。住宅のセーフティネットのあり方を考える上で、スペインの経験は日本にとっても重要な参考事例と言えるでしょう。













