常に権力と対峙してきた65年

スペインの演劇史において、最も重要かつ物議を醸し続けてきた劇団「エルス・ジョグラース(Els Joglars)」が、創立65周年を迎えた。1961年、まだフランコ独裁政権の暗い影がスペインを覆っていた時代に、アルベルト・ボアデリャらによってバルセロナで結成されたこの一座は、その名の通り「道化師」として、社会や権力の偽善を鋭く、そして執拗に突き続けてきた。記念公演としてセルバンテスの作品を現代的に再解釈した『驚異の飾り絵幕』をマドリードで上演する彼らの姿は、欧州で最も長命な独立劇団の一つとしての矜持を示している。しかし、その65年の道のりは、決して平坦なものではなかった。軍事政権による弾圧、民主化後の新たな政治権力との対立、そして現代社会に蔓延する「自己検閲」という見えざる敵との闘い。エルス・ジョグラースの歴史は、スペインの現代史そのものであり、表現の自由を巡る終わりのない闘争の記録でもある。

フランコ体制への抵抗と亡命

エルス・ジョグラースの名をスペイン全土、そして世界に知らしめたのは、1977年の『ラ・トルナ(La Torna)』事件である。この作品は、フランコ政権末期の1974年に無政府主義者を装ったスパイとして処刑された実在の人物、ハインツ・チェス事件を題材にしていた。民主化移行期の混乱の中、いまだ強大な権力を保持していた軍部はこの作品を軍への侮辱とみなし、上演を差し止め、ボアデリャを含む劇団員を逮捕した。軍法会議にかけられたボアデリャは、有罪判決を目前にして病院から脱走し、フランスへの亡命を余儀なくされる。この弾圧は、民主化されたはずのスペインに依然として独裁政権の残滓が色濃く残っていることを内外に示し、大きな衝撃を与えた。

ボアデリャは亡命先のペルピニャンで劇団を再建し、活動を継続する。彼の「劇団を潰されてたまるか」という執念は、エルス・ジョグラースの反骨精神の原点となった。この経験は、彼らにとって権力がいかに芸術を抑圧しうるか、そして芸術家はそれにどう抵抗すべきかという根本的な問いを突きつけた。独裁政権という明確な「敵」が存在した時代、彼らの風刺と抵抗は、多くの市民から喝采をもって迎えられ、自由の象徴と見なされた。

PR · eSIM
ヨーロッパ周遊なら複数国パックが安い
NordVPN と同じ Nord Security 系の eSIM「Saily」。データセキュリティ重視の設計で、ヨーロッパ複数国プランの割安感が強み。
Saily のプランを見る

民主化後の新たな敵:カタルーニャ・ナショナリズム

フランコ体制が崩壊し、スペインが民主主義国家として歩み始めると、エルス・ジョグラースの批判の矛先は新たな対象へと向かった。その一つが、彼らの出身地であるカタルーニャのナショナリズムであった。カタルーニャの自治政府や独立を志向する政治勢力が力を増す中で、ボアデリャはナショナリズムが内包する排他性や欺瞞性を容赦なく風刺の対象とした。かつては反フランコ闘争の英雄としてカタルーニャで称賛された彼らは、一転して「裏切り者」の烙印を押されることになる。

記事でボアデリャが語っているように、当時のジョルディ・プジョル率いるカタルーニャ州政府(中道右派ナショナリスト政党・集中と統一)の支配下にある多くの自治体は、エルス・ジョグラースの公演をボイコットした。独裁政権と戦った劇団が、今度は民主的に選ばれたはずの地方権力によって「検閲」されるという皮肉な事態に直面したのだ。しかし、ボアデリャはこの逆境を「我々をより強くした」と振り返る。「良き敵を持つことほど素晴らしいことはない」という彼の言葉は、エルス・ジョグラースが常に「対立」をエネルギー源としてきたことを物語っている。彼らは、権力が独裁政権から民主的な政党に変わろうとも、その本質にある欺瞞や抑圧の構造を見抜き、批判することをやめなかった。

見えざる検閲——「国家の文化」と自己検閲の罠

65周年を迎えた今、ボアデリャと2012年から劇団を引き継いだラモン・フォンセレーが最も警戒しているのは、かつてのような直接的な弾圧や検閲ではない。それは、より巧妙で根深い「自己検閲(autocensura)」の蔓延である。ボアデリャはこれを「国家の文化(cultura de estado)」という言葉で批判する。劇場や文化施設のプログラム編成者が、助成金を出してくれる自治体や政府の意向を忖度し、為政者を「怒らせる」可能性のある挑戦的な作品を自主的に避けるようになる現象だ。

フォンセレーも「1980年代や90年代にはもっと自由があった。当時我々がやっていたことの多くは、今やればとてつもないスキャンダルになるだろう」と語る。これは、社会の寛容性が失われたことを示唆している。かつては劇場で激しい野次や足踏み(pateo)が飛び交うほど観客は批評的だったが、今はどんな作品にも安易にスタンディングオベーションが送られるとボアデリャは嘆く。観客の批評精神の衰退と、作り手側の自己検閲は、表現の自由を内側から蝕む深刻な問題だ。エルス・ジョグラースは、セルバンテスの『驚異の飾り絵幕』を再び上演することで、この現代の偽善に立ち向かおうとしている。この作品では、「高貴な血筋の者」にしか見えないという触れ込みの架空の芝居が演じられる。見えないと言えば自分が「不純」だと非難されることを恐れ、人々が見えるふりをするという物語は、現代のポリティカル・コレクトネスや同調圧力に対する痛烈なメタファーとなっている。

PR · VPN
スペインのドラマ・映画を原語のまま
スペイン国内向けの配信ライブラリは国外からは見られないものが多い。NordVPN で接続地を切り替えるという選択肢。利用規約は各サービスでご確認を。
NordVPN を見る

日本の読者への解説

エルス・ジョグラースの65年の歴史は、日本の私たちにも多くの示唆を与える。特に、ボアデリャが指摘する公的資金に依存する文化施設における「自己検閲」の問題は、日本でも決して他人事ではない。近年、特定の政治的テーマを扱った芸術作品が公的施設での展示を拒否されたり、補助金交付が取り消されたりする事例が散見される。愛知トリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」を巡る騒動は、その象徴的な出来事だ。行政が文化に介入することの是非が問われると同時に、現場のキュレーターやプログラマーが政治的圧力を恐れて萎縮してしまう「自己検閲」の構造は、日本でも確実に進行している。

また、エルス・ジョグラースが実践してきた、権力者や社会の「聖域」をためらわずに風刺する姿勢は、日本の文化的土壌と比較したとき、その違いが際立つ。日本では、政治や社会に対する風刺が、特に商業演劇やテレビといったメインストリームで過激な形をとることは稀だ。社会の和を重んじる文化の中で、エルス・ジョグラースのような直接的で辛辣な批判は、単なる「悪ふざけ」や「品位に欠ける」ものとして敬遠される傾向が強いかもしれない。しかし、彼らの存在は、健全な民主主義社会にとって、耳の痛い真実を突きつける「道化師」がいかに重要であるかを教えてくれる。彼らが常に「良き敵」を求め、闘い続ける姿は、芸術が単なる娯楽ではなく、社会を映し、変革を促す力を持つことを証明している。エルス・ジョグラースの歴史は、表現の自由とは、一度勝ち取れば安泰なものではなく、常に社会の変化の中で問い直され、守り続けなければならないものであることを、私たちに強く訴えかけている。

この記事をシェア:X (Twitter)WhatsAppLINE