偶然の発見が照らし出す19世紀の女性たちの旅
ニューヨーク州北部の町の屋根裏部屋で、一世紀以上にわたり埃をかぶっていた歴史の断片が発見された。それは1880年代にスペインを旅した米国人女性画家、アンナ・パーカー・ディクスウェルが残した詳細な旅行日記である。この度『ボストンの女性旅行家たち:スペイン旅行の日記』として出版されたこの記録は、単なる旅の思い出にとどまらない。当時の社会通念を打ち破り、知的好奇心と芸術への情熱に突き動かされた女性たちの姿を、鮮やかに現代に伝えている。研究者によって発見されたこの日記は、文章だけでなく、鉛筆によるスケッチ、押し花、馬車の切符までが貼り付けられた「スクラップブック」形式であり、19世紀のスペインを五感で追体験できる貴重な一次資料だ。男性中心であった従来の「グランドツアー」の物語に、力強い女性の声を加える画期的な発見と言える。
旅人たちの横顔 ― 米国エリート「ボストン・ブラーミン」
日記の主であるアンナ・パーカー・ディクスウェルとは、一体どのような人物だったのだろうか。彼女と仲間たちは、当時の米国で最も経済的・知的に発展していた都市ボストンの出身で、その中でも特に名門とされる「ボストン・ブラーミン」と呼ばれる階級に属していた。これは1620年にメイフラワー号でアメリカに渡った最初の清教徒入植者の子孫たちで、社会の上流階級を形成していたエリート層である。彼女たちは進歩的な家庭に育ち、高い教育を受けていた。
リーダー格のディクスウェルは、米国画壇の重鎮ウィリアム・モリス・ハントに師事した画家であった。彼女たちの旅の動機について、編集者の一人であるクリスティーナ・モラレス氏はこう分析する。「当時の米国は南北戦争が終結してまだ20年ほど。国家としてのアイデンティティを模索している時代でした。彼女たちは、自分たちの国に欠けていると感じていた『歴史』と『文化的ルーツ』を、古いヨーロッパ、特にスペインに求めたのです」。
この旅には、米国建国の父に連なる家系の兄妹、アニー・カボット・パトナムとチャールズ・パトナム医師も参加していた。旅の途中からは、チャールズの義理の姉妹で、イェール大学の創設者一族出身のマデリン・イェール・ウィンも加わる。特にアニーとマデリンの関係は「ボストニアン・マリッジ」として知られる、当時の裕福で教養ある女性同士が生活と精神世界を共有する親密なパートナーシップであり、彼女たちの先進性を象徴している。さらに、一行には高名な作家ヘンリー・ジェイムズと親交のあった画家リジー・ライマン・ブートも名を連ねており、ジェイムズの代表作『ある婦人の肖像』の着想源になったとも言われている。彼女たちは単なる観光客ではなく、当代一流の知性と芸術的感性を備えた知識人集団だったのである。
男性中心の「グランドツアー」を覆す視点
19世紀のヨーロッパ旅行といえば、英国の貴族階級の男性たちが教育の総仕上げとして行う「グランドツアー」が主流だった。彼らが残したスペインに関する記述の多くは、作家のバイロンに代表されるように、エキゾチックで非ヨーロッパ的な「オリエンタリズム」の視点や、いわゆる「黒い伝説」に根差したステレオタイプ、そして時に見下したような態度に満ちていた。しかし、ディクスウェルたちの日記は、そうした男性的な視点とは全く異なるスペイン像を描き出している。
まず、彼女たちは「芸術の専門家として」スペインを訪れていた。マドリードのプラド美術館では、ティツィアーノの傑作『カール5世騎馬像』を前に「この絵画は、私の意見では、騎馬肖像画の分野で最高峰のものです。それを言葉で描写する?いいえ、私にそのような不遜で大胆なことはできません。しかし、これを描いた天才に畏敬の念を抱くことは、もちろんできます!」と記し、深い専門的知見と謙虚さを示している。彼女たちの目的は、物見遊山ではなく、ヨーロッパ芸術の神髄を学び、吸収することにあった。
さらに、現地文化への敬意も際立っている。他のスペイン人女性たちと同じようにマンティージャ(レースのベール)を身に着けて路面電車に乗るなど、現地の習慣に積極的に適応しようと努めた。セビーリャ大聖堂で聖遺物を見学した際のエピソードは象徴的だ。プロテスタントの英国人男性観光客がカトリックの作法に従わず跪かなかったため、司祭が激怒し、彼が退出するまで聖遺物は公開されなかった。ディクスウェルたちは作法に従い、その後に「スペインの過去の富と栄光の最も素晴らしい展示」を見ることができたと記している。これは、異文化に対する彼女たちの寛容で敬意に満ちた姿勢を明確に示している。
スペイン知識人との対等な交流と国際関係
ディクスウェルたちの旅が特異なのは、単にスペインの文化遺産を鑑賞しただけではない点にある。彼女たちは当時のスペインの知識人エリート層と、対等な立場で交流していた。その中心人物が、知識人であり翻訳家でもあったエミリア・ガヤンゴス・デ・リアーニョ夫人である。夫人はディクスウェルにこう語ったという。「ディクスウェルさん、あなたの国で女性が働くのは珍しくありませんが、スペインの女性が働くのは例外的なことなのです」。この一言は、当時のスペインにおける女性の社会的地位を浮き彫りにする貴重な証言だ。
さらに驚くべきは、このリアーニョ夫人の息子、フアン・リアーニョ・イ・ガヤンゴスが、後に駐米スペイン大使となり、米西戦争(キューバ独立戦争)の和平交渉を担う重要人物となることだ。この事実は、ディクスウェルたちが単なる旅行者ではなく、大西洋を挟んだ両国の知的エリート層のネットワークの中にいたことを示唆している。研究者のモラレス氏が「米国とスペインの関係が、かなり対等なものであったことを示している」と指摘するように、この日記は、米国が一方的に文化を発信する側で、スペインが受け取る側という単純な構図を覆す。むしろ、若い国家アメリカが、古い歴史を持つスペインの文化と知性に敬意を払い、学ぼうとしていた対等な関係性が浮かび上がってくる。
日本の読者への解説
この19世紀アメリカ人女性の日記の発見は、日本の我々にとっても多くの示唆を与えてくれる。まず、時代背景の比較が興味深い。彼女たちがスペインを旅した1880年代は、日本では明治時代の中期にあたる。岩倉使節団が欧米の制度や技術を学ぶために世界を巡っていた頃、アメリカの知的な女性たちは、自国にない「歴史の深み」を求めてヨーロッパの古国スペインを目指していた。新しい国家を建設するために西洋の「未来」を学ぼうとした日本と、自らの文化的アイデンティティを確立するためにヨーロッパの「過去」に触れようとしたアメリカ。この対照的なベクトルは、近代における国家形成の多様なあり方を教えてくれる。
次に、女性の社会進出という観点からも比較ができる。ディクスウェルたちは、津田梅子ら明治期に海外へ渡った日本の女子留学生たちとほぼ同世代である。共に社会的な制約を乗り越えた先駆者だが、その動機は異なっていた。日本の女子留学生が国家的な要請を背負い、近代化に貢献する使命感を持っていたのに対し、ボストンの女性たちは、より個人的な芸術的探求心や知的好奇心に基づいて行動していた。これは、女性のエンパワーメントが、それぞれの国の社会経済的背景や文化的文脈の中で、いかに異なる形で現れるかを示す好例と言えるだろう。
最後に、この発見は、歴史がいかに「失われた声」を取り戻すことで豊かになるかを物語っている。これまで男性のエリート層の視点で語られがちだった19世紀の国際文化交流史に、知的で自立した女性たちの視点が加わった。これは、日本史においても、これまで光が当てられてこなかった人々の日記や手紙、記録を発掘し、再評価することの重要性を示唆している。一つの史料が、国家間の関係性や特定の時代に対する固定観念を覆し、より複雑で多層的な歴史像を提示しうる。この「ボストンの女性旅行家たち」の日記は、まさにその力を証明する一級の発見なのである。













