カタルーニャ自治州のサルバドール・イリャ州首相と日本・大阪府の山口信彦副知事は9月10日、バルセロナのカタルーニャ州政府庁舎(Palau de la Generalitat)で戦略提携覚書(MOU)に調印した。有効期限は2029年、対象は①通商・投資、②研究とイノベーション(特にバイオ)、③ライフサイエンス(ヘルシーエイジング・デジタルヘルス)、④脱炭素とグリーン水素、⑤観光と文化交流の5分野で、州側の主体はカタルーニャ・バイオ産業クラスターBiocatとカタルーニャ観光庁、大阪側はOsaka Bio HeadquartersとOsaka Convention and Tourism Bureauが担う。これは2025年5月の大阪・関西万博「カタルーニャ・ウィーク」を起点とするイリャ州首相の対日外交の到達点であり、2024年に€10億(約1,600億円)を超えたカタルーニャの対日輸出、2020-24年に日本企業から流入した€7億の直接投資と3,000超の雇用──日本をカタルーニャの世界第7位の投資元に押し上げた経済関係を、初めて州対都道府県の制度枠組みに落とし込んだ格好だ。イリャは調印後「結果が翌日に出ることを急ぐつもりはない」と述べ、山口副知事は「これは始まりに過ぎない」と応じた。両者は毎年、実務レベルの合同作業会議を開いて進捗を評価する仕組みを備える。
調印式の中身──5分野、2029年まで、年次レビュー付き
覚書は「戦略的パートナーシップ」を掲げるが、実務的にはむしろ「連携を発散させないための骨組み」に近い。5分野は個別に対応窓口が指定されており、通商・投資は州経済省と大阪府商工労働部、研究・イノベーションはカタルーニャ研究政策局と大阪府商工労働部イノベーション推進課、ライフサイエンスはBiocat対Osaka Bio Headquarters、脱炭素・水素はカタルーニャエネルギー研究所(ICAEN)と大阪府エネルギー政策課、観光はカタルーニャ観光庁と大阪観光局が対応する。2029年までの4年半、各分野で年1回の作業会議を必ず開催し、そこで具体案件・進捗・障害を棚卸しする。政治文書にありがちな「善意の宣言で終わる覚書」ではなく、実務レベルの定例会議をあらかじめ書き込んだことが、今回の合意の重要な特徴である。
州側の署名者はイリャ州首相本人、大阪側は吉村洋文知事ではなく山口信彦副知事が代理で来欧した。州首相が知事本人ではなく副知事と署名する形式は、外交儀礼としては州側にとって最上級のシグナルではないが、大阪府としては州首相との直接調印を実現した点で、府政の対欧州アピールとしては十分な成果と位置づけられる。文書上の効力は署名者の役職に関わらず同等である。
数字で見るカタルーニャ・日本の経済関係──対日輸出€10億超、日本は第7位の投資元
覚書がなぜこのタイミングで、しかも大阪府とだけ結ばれたのかは、数字を見れば明らかになる。カタルーニャの対日輸出は2024年に€10億(約1,600億円)を突破し、過去10年間で41%増加した。カタルーニャは全スペインの対日輸出の29%、対日輸入の53%を占めており、EU外貿易の主戦場のひとつとしてすでに機能している。ここに2020-2024年に日本企業がカタルーニャへ投じた€7億(約1,120億円)の直接投資と3,000超の新規雇用が重なり、日本はカタルーニャにとって世界第7位の投資元国となった。バルセロナ港(Port de Barcelona)は日本発のEU向け物流ハブとして機能を強化しており、2025年3月のMWCバルセロナでは日本政府主催の「JAPAN館」が過去最大規模で出展した。
そのなかで大阪府は関西圏の経済中枢であり、大阪・関西万博(2025年4月-10月)を主催した府政である。イリャ州首相は2025年5月27日から6月1日まで日本を公式訪問し、大阪・関西万博で「カタルーニャ・ウィーク」を開催、東京では京都府知事との協力プログラムに署名、バルセロナ・スーパーコンピューティングセンター(BSC)は神戸のRIKEN計算科学研究センターと計算科学連携協定を締結した。今回のMOUは、このとき仕込まれた複数の芽のうち「大阪府本体との包括的な戦略協定」という最大の芽が実った形である。
本命はバイオ──Biocat対Osaka Bio Headquartersの制度化
5分野のうち、両者がもっとも力を入れているのがライフサイエンス、とくにバイオテクノロジーと先端医療である。Biocatはカタルーニャ州政府と民間が共同で運営するバイオ産業クラスター管理団体で、州内の1,650社のライフサイエンス・ヘルステック企業(2025年、前年比+8.3%)と94の研究機関を束ねる。同セクターの売上高は€486.9億、雇用は30万6,000人超(州就業人口の7.3%)でカタルーニャGDPの7.6%を占め、州内第3位の産業に成長した。バルセロナ地域は欧州でロンドン、ケンブリッジ、パリと並ぶバイオメディカル・ハブとして知られ、CRISPR技術を用いた遺伝子治療、mRNAワクチン、AI創薬の分野で世界的な実績を持つ。2025年のヘルスケア分野スタートアップ投資額は€5.17億の過去最高で、うちデジタルヘルス34%、バイオテック29%、メドテック14%が中心である。
これに対する大阪側の受け皿がOsaka Bio Headquarters(大阪バイオ・ヘッドクォーターズ)で、大阪府が中心となって運営するバイオ産業支援組織である。彩都(さいと)ライフサイエンスパーク、中之島の未来医療国際拠点(Nakanoshima Qross)など大阪府北部を中心とするバイオクラスターを、一元的に海外の投資家・研究機関に案内する窓口として機能してきた。今回のMOUで両組織はヘルシーエイジング(健康長寿)、デジタルヘルス、再生医療、iPS細胞応用を重点連携分野に定めた。大阪は京都大学・iPS細胞研究所(CiRA)との地理的近接を武器に再生医療で先行しており、バルセロナが強い遺伝子治療・AI創薬と補完関係にある。両者はすでに2024年から研究者派遣・スタートアップのマッチング事業で試験的な連携を進めており、今回の覚書はそれを恒久化する意味を持つ。
水素と脱炭素──カタルーニャHydrogen Valleyと大阪の水素社会
やや意外に映るかもしれないが、覚書の4番目の柱はグリーン水素と脱炭素技術である。カタルーニャ州政府は2023年に「Catalonia Hydrogen Valley(カタルーニャ水素バレー)」構想を発表し、タラゴナ石油化学コンビナート、バルセロナ港、リェイダの再生可能エネルギー拠点を軸に、2030年までにEUの主要水素生産・消費圏のひとつになる目標を掲げている。一方の大阪府も、2025年万博の会場を実質的な水素社会の実証実験場と位置づけ、水素バス、水素発電、水素燃料電池船を大規模導入した実績を持つ。
覚書では両者が水素サプライチェーンの技術移転、水素認証制度の共通化、港湾間の水素キャリア輸送スキームで連携することが明記された。バルセロナ港と大阪港はいずれも「グリーン水素の輸出入拠点」を目指しており、両港間の直接航路が水素キャリア(メチルシクロヘキサンやアンモニア形態)で結ばれる可能性がある。これは万博会期中に大阪側から強く提示された論点で、今回の覚書に反映された形である。
観光と文化──2023年MOUの発展、Any Catalunya-Japóの延長
5番目の柱の観光では、カタルーニャ観光庁と大阪観光局が2023年に締結したMOUを発展的に更新する形が採られた。2023年版はMICE(会議・展示会)観光を中心とする限定的なものだったが、今回はガストロノミー、文化交流、若者交流、映画・アニメーション協力まで含む包括的なものに拡大される。2025年は「カタルーニャ・ガストロノミー世界地域」に選定されており、東京・大阪でのカタルーニャ料理プロモーション、逆に大阪の食文化(お好み焼き、たこ焼き、割烹)のバルセロナでの展開が来年以降本格化する。
文化面では、2025年3月から2026年3月まで開催された「Any Catalunya-Japó(カタルーニャ・日本年)」の余勢を制度化する狙いが強い。同年には東京国立近代美術館でジョアン・ミロの大回顧展、バルセロナのCCCBで葛飾北斎展、リセウ大劇場で坂本龍一のトリビュート公演などが実施された。イリャ州首相自身も5月に東京のミロ展を訪問しており、両政府は「単年イベントで終わらせない」姿勢を明確にしている。
「結果を急がない」──イリャの外交スタイルと大阪府の思惑
調印式後の会見でイリャ州首相が引用した日本のことわざ「話す者は種を蒔き、聴く者は刈り取る」(quien habla siembra y quien escucha cosecha)は、社会党(PSC)出身のイリャの外交スタイルをよく示す。前任者のペレ・アラゴネス州首相(ERC)時代の対日外交が独立問題と絡んで冷え込んでいたのに対し、イリャは2024年5月の就任以来、独立問題を封じたうえで経済外交に一本化する方針を明確にしてきた。「結果が翌日に出ることを急ぐつもりはない」という発言は、単年成果主義の政治家に対する遠回しな批判であると同時に、日本側の「長期関係を重んじる」文化的コードへの応答でもある。
大阪府側の思惑はより明快である。吉村洋文知事率いる大阪維新の会にとって、「大阪府独自の対外プレゼンス」は党のアイデンティティそのものだ。日本政府(外務省)を通さずに欧州の主要地域と包括的戦略覚書を結ぶことは、道府県外交の先鋭事例として国内で強くアピールできる。大阪府は2025年万博の成功を対外プレゼンスの資産として最大化する段階に入っており、欧州側のパートナーとしてスペイン最大級の経済圏でありEU4位のバイオメディカル・ハブでもあるカタルーニャを選んだ意味は大きい。山口副知事の「これは始まりに過ぎない」という発言は、大阪維新にとってのこの合意の政治的重さを示している。
在住者・出張者への影響──何が変わり、何は変わらないか
この覚書がスペイン在住の日本人、あるいはカタルーニャ・大阪間を出張・観光で行き来する層に与える具体的な影響を整理する。直近1-2年で明確に変わる可能性が高いのは、①MICE案件の相互紹介、②大阪企業のバルセロナ進出支援窓口の常設化、③研究者・スタートアップの相互派遣スキームの拡充、④ガストロノミー・文化交流イベントの定例化である。バルセロナ-東京間の直行便は現時点で存在せず、KLM経由(アムステルダム乗継)、ルフトハンザ経由(フランクフルト乗継)、エミレーツ経由(ドバイ乗継)、ターキッシュエアラインズ経由(イスタンブール乗継)が主流だが、覚書の副次効果として大阪府側から関西空港-バルセロナ線の需要喚起プロモーションが始まる公算が大きい。
逆に短期的にはほぼ変わらないのが、個人観光ビザ・移住条件・法人設立手続き・不動産取得ルールなど、国家レベルの制度である。今回の覚書は自治州対都道府県の実務協定であり、スペイン中央政府や日本政府の権限に踏み込むものではない。「カタルーニャに移住しやすくなる」「大阪でスペイン人が働きやすくなる」といった生活実感レベルの変化は、この覚書だけでは起きない。変わるのは制度ではなく、案件が動く速度と情報の非対称性である。バルセロナで日本市場を狙うバイオスタートアップ、大阪で欧州展開を模索するエネルギー企業、双方の観光業者にとって、公的窓口経由で「相手側の適切な部署につながる」までの時間が数ヶ月単位で短縮される。この覚書の実質的な価値は、まさにその一点にある。













