スペインで121年ぶりの皆既日食まで、あと3日。8月12日の夕方、ガリシアからバレアレス諸島まで北スペインを横断する「皆既帯」に、世界中から観察者が集まる。その直前になって、現地では深刻な問題が起きている。ISO 12312-2規格に適合した日食観察用グラスが各地で売り切れ、8月7日から8日にかけてビルバオ、フェロル周辺、バリャドリードなどで「在庫ゼロ」「入荷しても数時間で消える」と地元紙が相次いで報じたのだ。そして品薄に便乗するように、規格表示だけを印刷した未認証品がネット通販やバザーに出回っている。ここで最初に、最も重要なことを言っておきたい。普通のサングラスでは、どれほど濃い色でも、太陽を直視する目を守ることは絶対にできない。網膜には痛覚がないため、焼けても痛みを感じず、視界の異常は数時間後に現れ、確立した治療法はなく、損傷は永久に残りうる。本稿では、正規品の見分け方、品切れの中で今からできること、グラスなしでも安全に日食を楽しむ方法、そして「皆既中だけ」の例外ルールまで、目を守るための知識をまとめる。

なぜサングラスではだめなのか

数字で比べると、その差は歴然としている。日食観察用グラスは、可視光線の99.999%以上を遮り、紫外線と赤外線をほぼ100%ブロックするよう設計されている。一方、濃い色のサングラスが遮る可視光線はせいぜい8〜9割程度で、観察用グラスとは桁が数個違う。サングラスを2枚重ねても、すすで黒くしたガラスでも、CDやレントゲンフィルムをかざしても、この水準にはまったく届かない。しかも紫外線や赤外線は色の濃さと関係なく透過するため、「暗く見えるから安全」という感覚自体が罠になる。

太陽を直視したときに起きるのは「日食網膜症」と呼ばれる網膜の光化学的な損傷だ。恐ろしいのはその静かさである。網膜には痛みを感じる神経がないため、焼けている最中に自覚症状はない。視界の中心がかすむ、文字が歪む、暗い点が居座るといった症状は数時間から翌日になって現れ、そのときにはすでに手遅れのことが多い。バレンシアの検眼士会は「たとえ数秒でも、雲に部分的に隠れていても、太陽を直接見てはならない」と警告している。数秒の油断が、一生ものの視力障害につながりうるのだ。

正規品の見分け方 「ISO 12312-2」の印刷だけでは信用できない

太陽の直視に使ってよいのは、国際規格「ISO 12312-2」(欧州ではEN ISO 12312-2:2015)に適合した日食観察専用フィルターだけだ。正規品にはこの規格番号とCEマーク、製造者情報、使用上の注意が明記されている。問題は、この規格番号を「印刷しただけ」の未認証品が存在することである。2024年の北米皆既日食では、米食品医薬品局(FDA)などの当局が規格表示のある不適合品を大量に市場から排除した。スペインでも、中国系の格安通販サイトやバザーで売られる製品に、認証のない「ISO 12312-2」表示が頻繁に見つかると専門業者が警告している。

自衛策はシンプルだ。第一に、購入先を選ぶこと。眼鏡店(オプティカ)、薬局、天文機材の専門店、公的機関が案内する正規販売元など、身元の確かな店で買う。露店や出所不明のマーケットプレイス出品者は避ける。第二に、疑わしければ販売者に認証試験報告書の提示を求めること。正規の販売者なら問題なく応じられるはずで、応じられない場合は買わないのが賢明だ。第三に、手元に届いたら使用前に傷や穴がないか光にかざして点検すること。過去の日食で使った古いグラスも、フィルターに傷や剥がれがあれば廃棄すべきだ。

各地で品切れ 今からできることは

入手の問題は深刻だ。眼鏡店や薬局の在庫は6月から7月前半にかけて底をつき始め、直前需要が殺到した8月上旬には、ビルバオ市内の眼鏡店の大半で正規品が払底、フェロル周辺やバリャドリードでも「予想を超えた反響」で完売が報じられた。一部の店は8月入荷分の順番待ちリストを作り、自治体や機関による無料配布、視力検査とセットの配布キャンペーンも行われている。一部のスーパーマーケットチェーンが正規品を扱っているという報道もあり、薬局への少量入荷は数時間で消えるのが現状だ。

いまから確実に入手したいなら、選択肢は三つに絞られる。正規販売元のオンラインストアで配達日を確認した上で注文する(当日に間に合わなければ意味がない)、眼鏡店・薬局の入荷待ちリストに登録して当日朝まで粘る、そして自治体の配布情報を市役所や観光案内所で確認することだ。焦って露店や出所不明の出品者から買うくらいなら、次に述べる「グラスなしの観察法」のほうがはるかに安全である。

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グラスが手に入らないときの安全な観察法

実は、専用グラスがなくても日食は楽しめる。最も安全なのは「ピンホール投影」だ。厚紙に画鋲などで小さな穴を開け、太陽に背を向けて立ち、穴を通った光を地面や別の紙に映す。距離を調整するとくっきりした太陽の像が現れ、日食が進むにつれて、月が太陽を欠けさせていく様子がそのまま投影される。台所のザルや穴あきお玉を使えば無数の三日月形の光が映り、木漏れ日も同じ原理で無数の欠けた太陽を地面に描く。子ども連れなら、これが最も安全で、工作として一番盛り上がる方法でもある。

スペイン国立地理学院(IGN)は、自作・代用系のフィルターの中で唯一合理的なものとして溶接用の高遮光ガラス(遮光度12〜14)を挙げているが、それでも「光学的な質には大いに難がありうる」と付言している。同時にIGNは、感光済みフィルム、フロッピーディスク、レントゲン写真、サングラス、CD、すすで黒くしたガラスを「必要な水準で放射を遮らない」として明確に不適としている。逆に、絶対にやってはいけないのは、双眼鏡・望遠鏡・カメラの接眼側にグラスを当てて覗くことだ。レンズが集めた強烈な光と熱はフィルターを一瞬で溶かし、裸眼の直視より桁違いに危険な事故につながる。光学機器には対物レンズ側(前面)に装着する専用の太陽フィルターが必須で、スマートフォンのカメラも、太陽に向けたまま画面を構図確認のために見続けるのは避けたい。

「皆既中だけ」の例外と、太陽高度8度の落とし穴

ひとつだけ、肉眼で見てよい瞬間がある。皆既帯の内側で、月が太陽を完全に覆い隠した「皆既」の間だけだ。今回の皆既の長さは場所により最大でおよそ1分44秒。この間はコロナの輝きを裸眼で見ることが許され、それこそが皆既日食最大の見せ場でもある。ただし条件は厳格だ。太陽の縁が再び輝き出す「ダイヤモンドリング」の直前には必ずグラスを戻すこと。そして皆既帯の外——マドリードやバルセロナ、セビージャなど部分日食しか見えない地域では、たとえ99%欠けていても、最初から最後まで一瞬たりとも裸眼で見てはいけない。残り1%の太陽光でも、網膜を焼くには十分すぎる。

今回の日食には、もうひとつ特有の危険がある。皆既が起きるのは夕方の午後8時台、太陽高度はわずか8度前後と、地平線すれすれの低さだ。夕日は大気に減光されて肉眼でも見られそうな錯覚を与えるが、部分食の間の太陽は、低かろうと赤かろうと網膜を損傷させる力を保っている。「夕日だから大丈夫」は、この日食でいちばん危険な思い込みになるだろう。地域ごとの時刻と観察場所選びは皆既日食完全ガイドを、当日の交通規制と渋滞予測は経済・交通編を参照してほしい。

日本の読者への解説

これからスペインに向かう読者は、可能なら出発前に日本でISO 12312-2適合の日食グラスを調達しておくことを強く勧める。日本の天文機材メーカーや量販店の正規品も同じ国際規格に基づいており、現地の品切れ騒動と無縁でいられる。すでにスペイン滞在中で入手できていない読者は、露店や出所不明の通販に手を出さず、眼鏡店・薬局の入荷待ちと自治体の配布情報を確認しつつ、だめならピンホール投影に切り替えるのが正解だ。121年ぶりの天体ショーは、たった数秒の油断で一生の後悔に変わりうる。目を守る準備こそが、この日食の最高の観覧チケットである。

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