8月6日は、広島に原子爆弾が投下された日である。2026年のきょう、広島平和記念公園では81回目の平和記念式典が営まれ、過去最多となる123の国・地域の代表が参列し、原爆死没者名簿の登載者は35万3,639人となった。そしてこの日付は、実はスペインと深い糸で結ばれている。1945年8月6日午前8時15分、爆心地から約6キロの長束(ながつか)にあったイエズス会修練院に、ビルバオ出身のスペイン人神父ペドロ・アルペがいた。医学部で学んだ経験を持つ彼は、半壊した修練院を野戦病院に変えて150人以上の負傷者を受け入れ、その大半を救った。しかもその朝、スペインと日本は国交断絶中だった。半年前のマニラ市街戦でスペイン領事館に避難していた約70人が日本軍に殺害され、フランコ政権は同年4月に対日断交へ踏み切っていたのである。国家同士の関係が最悪の底にあったまさにその瞬間、一人のスペイン人が広島で死にゆく人々の傍らにいた。アルペはのちにイエズス会の総長となり、現在は列福(カトリックの「福者」認定)の手続きが進む。そしてもう一本の糸がある。1937年にドイツ・イタリア空軍の無差別爆撃を受けたバスクの町ゲルニカは、広島・長崎の被爆者たちと生存者団体を通じて結ばれ、2018年には広島の被爆樹木の子孫にあたるイチョウが町に植えられた。この記事では、8月6日という日付がスペインと日本のあいだに刻んできたものを、ドキュメンタリーのように時間を追ってたどる。
午前8時15分、爆心から6キロ
1945年8月6日の朝、広島市郊外の長束にあったイエズス会の修練院には、35人の若い修練者と数人の司祭がいた。修練長を務めていたのが、当時37歳のペドロ・アルペである。彼自身の証言によれば、午前8時15分、アルペは別の司祭とともに自室にいた。その瞬間を、彼は後年こう書き残している。「マグネシウムを焚いたような、目もくらむほど強烈な閃光が、私たちの目の前で走った」。市街の方角に面した扉を開けたとき、続いて音が来た。「凄まじい爆発音を聞いた。恐ろしいハリケーンのうなりに似ていて、扉も窓もガラスも壁も、私たちの上に崩れ落ちてきた」。
爆心地から約6キロという距離が、修練院の建物と中にいた人々の命を救った。だが丘の下に広がる市街は、そこにあったものごと消えていた。広島市の推計では、この年の暮れまでにおよそ14万人が亡くなったとされる。長束の丘からは、燃え上がる街と、皮膚を垂らしながら郊外へ逃れてくる人々の列が見えた。アルペと修練者たちが最初にしたのは、逃げることではなかった。壊れた修練院の扉を、逆に開け放つことだった。
ビルバオの医学生が広島に来るまで
ペドロ・アルペは1907年、バスク地方の中心都市ビルバオに生まれた。マドリードの医学部に進み、同じ時期に、のちにノーベル生理学・医学賞を受けるセベロ・オチョアと机を並べている。将来を嘱望された医学生だったが、1927年、医学の道を捨ててイエズス会に入会した。1932年、共和国政府がイエズス会の解散を命じるとスペインを離れ、ベルギー、オランダ、アメリカで養成を続け、1936年に司祭に叙階される。祖国は内戦に沈んでおり、彼が戻る場所はなかった。1938年、かねて志願していた日本への派遣が認められて来日し、日本語の習得を経て、かつてフランシスコ・ザビエルが歩いた山口の教会で宣教活動を始める。
日米開戦の日、彼の運命はもう一度ねじれる。1941年12月8日、アルペはスパイ容疑で逮捕され、数週間拘束された。外国人宣教師への疑いが極限まで高まっていた時代である。それでも釈放後の彼は日本を離れず、広島郊外の長束で修練長に任じられた。ビルバオの医学生は、こうして1945年8月6日の朝、爆心地から6キロの場所に立つことになる。
国交なき国のスペイン人
ここで時計を半年だけ巻き戻す。1945年2月、フィリピンの首都マニラで、市街戦の混乱のなか日本軍による住民殺害が起きた。中立国スペインの領事館には「ここなら安全だ」と信じた人々が避難していたが、領事館もろとも襲われ、複数の国籍にまたがる70人以上が命を落とした(80人とする資料もある)。日本と友好関係にあったはずのフランコ政権にとって、これは決定的な裏切りだった。同年4月11日の閣議でスペインは対日国交断絶を決定する。政権内や報道では対日参戦論さえ浮上し、ソ連相手に派遣した義勇部隊「青い師団」の対日版を送るという構想まで語られたと伝えられる。日西の外交関係が大使級で回復するのは、戦後の1952年まで待たねばならない。
つまり1945年8月6日の朝、スペインという国家と日本という国家のあいだには、外交関係が存在しなかった。その断絶のさなかに、一人のスペイン人が広島の丘の上で、崩れた聖堂の扉を開け、日本人の負傷者を迎え入れていた。国家の関係と人間の関係は、同じ日に正反対の方向を向くことがある。8月6日のスペインと日本の物語が持つ最初の逆説が、これである。
修練院は病院になった
アルペには、他の宣教師にない武器があった。マドリードで積んだ医学の訓練である。彼は修練者たちとともに修練院を野戦病院に変え、運び込まれる負傷者を受け入れた。その数は150人を超えた。麻酔も薬品もほとんどない。火傷の処置、ガラス片の摘出、消毒。修練者たちが看護人となり、聖堂だった空間に負傷者が横たわった。記録によれば、この即席の病院に収容された人々のほとんどが一命を取り留めたという。アルペはその後、生存者の救護のために市内にも入っている。放射線という言葉の意味を、世界のほとんど誰も知らなかった時代である。
この体験は、彼の生涯を貫く軸になった。アルペは戦後も日本にとどまり、被爆体験を世界各地で語り、体験記『Yo viví la bomba atómica(私は原爆を体験した)』を著した。イエズス会日本管区の管区長を経て、1965年には全世界のイエズス会を率いる第28代総長に選出される。在任は1983年まで。組織を大きく現代化し、「第二の創立者」とも呼ばれた彼の原点に、広島の朝があったことは本人が繰り返し語っている。1991年に没し、現在はカトリック教会の列福調査が進行中である。ビルバオ生まれのこの神父は、いわばスペインが持つ最も直接的な「広島の記憶」だ。
もう一つの糸――ゲルニカと広島
スペインと8月6日を結ぶ糸は、アルペ個人だけではない。彼の故郷ビルバオから東へ30キロほどのバスクの町ゲルニカ(バスク語表記ゲルニカ=ルモ)は、広島とほとんど宿命的な関係にある。1937年4月26日、スペイン内戦のさなか、フランコ側を支援するドイツのコンドル軍団とイタリア空軍がこの町を波状爆撃した。月曜の市の立つ日を狙った攻撃で、死者数は当時のバスク自治政府発表の1,654人から現代の研究が示す150〜300人前後まで幅があるが、防御手段を持たない都市への計画的な無差別空爆として、世界に衝撃を与えた。ピカソが同じ年のパリ万国博覧会のために大作「ゲルニカ」を描き、この町の名は都市爆撃の代名詞になる。
そしてゲルニカで始まった「空から都市を焼く」という戦争の形は、8年後、広島で一つの終着点に達する。ゲルニカの平和研究センター、ゲルニカ・ゴゴラトゥスはこの系譜を正面から引き受けてきた。同センターに本部を置く生存者団体「Marchemos juntos en paz(共に平和のうちに歩もう)」は、ゲルニカ、ドレスデン、広島、長崎、そして1945年8月14日夜から15日未明にかけて「日本最後の空襲」とも呼ばれる爆撃を受けた秋田市土崎の、爆撃生存者たちで構成される。広島は2013年にこの枠組みへの参加を宣言し、2017年にはゲルニカと長崎の被害者団体の協力協定が結ばれた。爆撃された町同士が、国家の謝罪や補償の枠組みとは別の場所で、生存者の顔の見える連帯を積み上げてきたのである。
一本のイチョウ
この連帯には、目に見えるしるしがある。2018年4月、ゲルニカの町に一本の若いイチョウが植えられた。広島で被爆しながら翌年芽吹き、生き延びた樹木の子孫である。植樹には広島市の松井一実市長自身がゲルニカまで足を運び、「この苗木がこの土地に根を張り、平和の象徴になってほしい」と述べた。苗木を送り出したのは、2012年に広島の市民、国連訓練調査研究所(UNITAR)、NGOのANT-Hiroshimaが立ち上げた「グリーン・レガシー・ヒロシマ」で、被爆樹木の種子や苗木はこれまでにおよそ30の国々へ届けられてきた。ゲルニカのイチョウはその一本として、樫の木(ゲルニカの木)がバスクの自由の象徴として立つこの町で、いま9回目の夏を迎えている。
2026年8月6日
そしてきょう、81回目の8月6日が来た。広島平和記念公園での式典には過去最多となる123の国・地域の代表が参列し、参列者は原爆投下時刻の午前8時15分に黙祷を捧げた。この一年に亡くなった被爆者の名前が書き加えられた原爆死没者名簿は35万3,639人分となり、慰霊碑に納められた。松井市長は平和宣言で、核兵器がもたらす破局的な結末を改めて訴え、多国間の枠組みによる核軍縮を求めた。高市早苗首相も参列している。核をめぐる世界の緊張がむしろ高まるなかでの節目である。
日本の読者への解説
日本で暮らしているとつい、8月6日は「日本の記憶」だと思いがちだ。だがこの日付は、爆心地から6キロの丘で扉を開け放ったビルバオの神父を通じて、そして無差別空爆の系譜の始点として広島と結ばれたゲルニカの町を通じて、スペインの記憶でもある。アルペ神父の名は、日本ではカトリック関係者以外にほとんど知られていない。それでも、国交すら失われていた1945年のあの朝に、国家より先に動いた一人の人間がいたことは、日西関係史のどの条約よりも雄弁な事実だろう。
スペインを旅するなら、この物語には実際に触れられる場所がある。ビルバオはアルペの生地であり、ゲルニカには爆撃を伝える平和博物館と、ピカソの「ゲルニカ」の陶板レプリカ、そして2018年に植えられた広島の被爆イチョウの子孫が立つ。マドリードのレイナ・ソフィア美術館では「ゲルニカ」の実物に会える。爆撃された町同士が80年をかけて、加害国も被害国も関係のない生存者の連帯を編み上げてきたこと。ゲルニカの土に根を張った広島のイチョウは、その静かな証人として、今年も夏の陽を浴びて立っている。













