「列車は一度しか通らない」という厳しい宣告
スペインで最もメディアへの露出が多い経済学者の一人、サンティアゴ・ニーニョ・ベセラ氏が、スペインとカタルーニャ州の産業の将来について、極めて悲観的な見解を表明した。同氏は「スペインとカタルーニャはその列車を逃した。そして、その列車は一度しか通らない」と述べ、第四次産業革命とも呼ばれる現代の技術革新の波に乗り、高付加価値な産業構造へと転換する歴史的な機会を、両者は永久に失ったとの認識を示した。この発言は、パンデミック後の経済回復やEUからの復興基金に沸く社会の楽観的なムードとは一線を画すものであり、スペイン経済が抱える構造的な問題を改めて浮き彫りにしている。
ニーニョ・ベセラ氏は、2008年の金融危機を事前に予見していた数少ない論客として知られ、その発言は常に注目を集める。彼の分析の核心は、スペインが1980年代以降の脱工業化の流れの中で、建設業と観光・サービス業という、労働集約的で付加価値の低い分野に過度に依存する経済モデルを固定化させてしまったという点にある。今回の発言は、このモデルからの脱却がもはや不可能であるという、最終宣告にも近い意味合いを持っている。
ニーニョ・ベセラ氏の分析:なぜ「列車を逃した」のか
ニーニョ・ベセラ氏が指摘する「逃した列車」とは、具体的に何を指すのだろうか。それは、デジタル化、グリーンエネルギー、バイオテクノロジー、人工知能(AI)といった、高度な技術と知識を必要とする新しい産業の波である。同氏によれば、スペインはこの波に乗るための基礎体力を長年にわたって失い続けてきたという。
その原因は複合的だ。第一に、研究開発(R&D)への投資不足が挙げられる。スペインのGDPに占める研究開発費の割合は長年EU平均を下回っており、基礎研究から商業化への道のりが細い。第二に、教育システムの問題がある。高い若年失業率と、産業界が求めるスキルセットを持つ人材のミスマッチは深刻であり、高度な技術を担う人材が育っていない。第三に、政治の短期的な視点である。歴代政権は、構造改革という痛みを伴う政策よりも、建設や観光といった手っ取り早く雇用を生み出せる分野に補助金や投資を振り向けてきた。EUの復興基金「Next Generation EU」という、またとない構造転換のチャンスでさえ、その資金が真に生産性を高める分野に戦略的に投下されているかについては、多くの専門家から疑問の声が上がっている。
特に注目すべきは、同氏がスペイン全体だけでなく「カタルーニャ」を名指しで言及した点だ。カタルーニャは、歴史的にスペインで最も工業化が進んだ地域であり、今なおGDPの約20%を工業が占める産業の中心地である。そのカタルーニャでさえも「列車を逃した」と断じることは、問題が単なる地域的なものではなく、スペインという国家全体の経済システムに根差した、より深刻なものであることを示唆している。
観光・サービス業依存モデルの行き詰まり
では、産業再興の道を閉ざされたスペインに残された道は何だろうか。ニーニョ・ベセラ氏の論理に従えば、それは既存の観光・サービス業を中心としたモデルを続けること以外にない。しかし、このモデルはすでに多くの面で行き詰まりを見せている。
経済的には、このモデルは本質的に低賃金・不安定雇用(特に季節労働)を生み出しやすく、国民の所得向上や格差是正には繋がりにくい。パンデミックや地政学的リスクといった外部からの衝撃に極めて脆弱であることも、近年の経験が証明している。社会的には、バルセロナやバレアレス諸島などで深刻化している「オーバーツーリズム(観光公害)」の問題がある。住宅価格の高騰、インフラへの過剰な負荷、地域住民の生活環境の悪化は、もはや看過できないレベルに達しており、観光客の受け入れを制限する動きも各地で具体化している。
つまり、スペインは高付加価値産業への転換に失敗した結果、限界が見えている観光・サービス業にさらに依存せざるを得ないというジレンマに陥っている。これは、経済成長の停滞だけでなく、社会的な緊張を高める要因ともなり得る。ニーニョ・ベセラ氏の警告は、単なる経済予測ではなく、スペイン社会の未来そのものに対する警鐘なのである。
日本の読者への解説
ニーニョ・ベセラ氏のスペイン経済に対する厳しい診断は、日本の読者にとっても対岸の火事ではない。むしろ、多くの点で日本の現状と重なる部分があり、重要な示唆を与えてくれる。日本もまた、かつて世界を席巻した製造業の競争力が相対的に低下し、新たな成長エンジンを見出せずにいる「失われた数十年」を経験してきた。
「逃した列車」という比喩は、日本にも当てはまるかもしれない。例えば、GAFAに代表されるプラットフォームビジネスやソフトウェア産業の波に、日本が完全には乗り切れなかったことは多くの専門家が指摘するところだ。スペインが研究開発投資や人材育成を怠ったという批判は、そのまま日本の課題としても議論されている。硬直化した大企業文化や、リスクを取らない風潮が、新しい産業の創出を妨げているという構造も類似している。
もちろん、スペインと日本の間には大きな違いもある。日本の産業基盤は依然として厚く、自動車、電子部品、素材科学などの分野では世界トップクラスの技術力を維持している。スペインのように単一の産業(観光業)に経済の浮沈が左右される構造とは異なる。しかし、スペインが直面する「高付加価値産業への転換の失敗」という課題は、日本の未来にとっても極めて重要なテーマである。人口減少と高齢化が急速に進む中で、労働生産性を飛躍的に向上させなければ、経済規模の維持すら困難になる。ニーニョ・ベセラ氏の警告は、過去の成功体験に安住し、痛みを伴う構造改革を先送りし続けることのリスクを、スペインの事例を通して我々に突きつけていると言えるだろう。













