スペイン代表がW杯を制し、街の広場という広場が夜通しの歓声に包まれた。だが立ち止まって考えたい。3ヶ月前までサッカー中継が始まると番組を切っていた人が、なぜ深夜に絶叫し、見知らぬ他人と抱き合い、あるいは店のガラスを割るに至るのか。本稿は脳神経学と集団心理学を横断し、「無関心」から「熱狂」、そして一部の「暴走」までを、一本の連続した現象として解剖する。結論を先に述べれば、熱狂は個人の意思の産物ではなく、単純接触・ミラーニューロン・報酬予測・オキシトシン・社会的アイデンティティ・群衆効果・集合的沸騰という七つのプロセスが——その多くは意識の外側で——脳を巻き込んでいく現象である。フーリガンは特殊な人格の持ち主ではなく、同じメカニズムが少しだけ環境要因で振り切れただけの、ごく普通の人間である。

第一の関門:単純接触効果 — 「顔を見る回数」だけで好意は生まれる

社会心理学者ロバート・ザイアンスが1968年に示した単純接触効果(Mere Exposure Effect)は、人がある対象に反復して触れるだけで、そこに好意を抱くようになるという頑健な現象である。内容の善し悪しは関係ない。頻度そのものが感情の源泉になる。

W杯期間、街のバルのテレビ、駅の広告、同僚の雑談、SNSのタイムライン、スーパーのビール売り場の陳列に至るまで、代表チームのユニフォームと選手の顔は視界に強制的に流し込まれる。無関心だった脳は、最初はそれを雑音として処理するが、繰り返し接するうちに、その刺激を処理する脳の負荷が下がり、扁桃体の警戒反応も弱まっていく。人は「すらすら処理できるもの」を「安全で好ましいもの」と取り違える。これが単純接触効果の有力な説明とされる、処理流暢性(processing fluency)である。

つまり、ここには一つの「情報」も入っていない。選手の生い立ちも戦術も知らない。ただ「顔を何回見たか」だけで、好意の下地は完成する。熱狂の入り口は、実は知性ではなく、視覚の反復にある。

第二の関門:ミラーニューロン — 見ているだけで身体は参加している

イタリアの神経学者ジャコモ・リゾラッティらは1990年代、サルの前運動皮質に「他者の動きを見た時に、自分がその動きをした時と同じように発火する神経細胞」を発見した。ミラーニューロン・システムである。ヒトで単一の神経細胞を直接記録するのは難しく、「ミラーニューロンが共感のすべてを説明する」という強い主張には慎重論もある。それでも、他者の動作を見るとき観察者の運動関連領野が活動すること自体は、脳画像研究で繰り返し確かめられている。

観戦中、選手がシュートを放つと、視聴者の脳の運動野は実際にキックしているかのように活動する。ゴールが決まった瞬間、思わず両手を突き上げるのは、意思決定ではなく、脳が既に「参加した」と信じているからだ。テレビの前に座っているだけでも、身体は精神的な意味で試合の中にいる。

この身体的錯覚は、単純接触で作られた薄い好意を、一気に「自分ごと」の次元へ引き上げる。選手のゴールは、自分の身体が達成したかのように処理される。熱狂の第二段階は、他者の動きを自分の動きとして生きる、この神経的な同期である。

第三の関門:報酬予測誤差 — サッカーは合法ギャンブルである

神経科学者ウォルフラム・シュルツは1997年、サルにジュースを与える実験で、ドーパミン神経が「予想外の報酬」に対して最も強く発火することを示した。予測どおりの報酬では、この反応は起きない。予測を超えた時にだけ、ドーパミン神経は一気に発火する。

サッカーは、この「予測誤差」を人為的に最大化するように設計された競技である。90分間、点はほとんど入らない。だから一つのゴールが、予測を最大に裏切る。あの瞬間、脳内のドーパミン濃度は著しく上昇することが示唆されている。

そしてこの神経回路は、スロットマシンやパチンコと本質的に同じである。だからサポーターは「今日は疲れているから見ない」と決めていても、結局テレビをつけてしまう。熱狂を維持するのは意思ではなく、依存の神経回路である。

第四の関門:オキシトシン — 「愛情ホルモン」ではなく「内集団ホルモン」

オキシトシンは長らく「愛情ホルモン」「絆ホルモン」と呼ばれてきた。だがオランダの心理学者カルステン・デ・ドリューらが2011年に示したのは、より不穏な側面である。オキシトシンが最も確実に強めるのは、同じ集団の仲間への信頼と献身、すなわち内集団びいきだった。外集団への敵意を高める効果も観測されたが、こちらは内集団びいきに比べて弱く、一貫もしていない。オキシトシンは「みんなを愛する」ホルモンというより、まず「身内を優遇する」ホルモンなのだ。

同じ赤いユニフォームを着た見知らぬ他人が、突如として「兄弟」になる。この生化学的な兄弟化が、広場での抱擁を可能にする。そして身内への愛着が濃くなるほど、その円の外側との境界線もくっきりしてくる。オキシトシンは愛情の裾野を無差別に広げるのではなく、まず「身内」という円を濃く塗り、その結果として内と外の線を引く物質である。

W杯優勝の夜に赤の他人と抱き合った同じ人が、対戦国のサポーターには急に冷ややかになる。それは道徳的な矛盾ではない。身内をひとつに束ねる力と、境界の外を遠ざける力は、もともと同じコインの裏表だからだ。

第五の関門:社会的アイデンティティ — 「私」が「我々」に上書きされる

イギリスの心理学者ヘンリ・タジフェルとジョン・ターナーが1970年代に構築した社会的アイデンティティ理論によれば、人間の自己概念は「個人としての私」と「集団の一員としての私」の二層構造でできている。どちらが前景化するかは、状況次第で切り替わる。

W杯期間、多くの人にとって「スペイン人であること」が自己定義の最上位に浮上する。普段は職業、家族、趣味、住んでいる地域が自己の中心だが、赤いユニフォームを着た11人が勝った瞬間、それらは背景に沈み、「我々が勝った」という一文が脳を支配する。

この上書きが決定的なのは、勝敗が個人の幸福感と直結してしまう点にある。個人史では何ら成功していなくても、代表が勝てば自分が勝ったように感じる。逆に敗北すれば、自分が敗北したように傷つく。人生の主語が「私」から「我々」に置き換わる、その言語的な操作こそが、熱狂の最も深い層である。

第六の関門:群衆と匿名性 — 「理性を失う」という神話とその訂正

19世紀末、フランスのギュスターヴ・ル・ボンは1895年の『群衆心理』で、群衆に呑まれた個人は理性と道徳的責任感を失うと論じた。20世紀後半、フィリップ・ジンバルドーはこれを実験に翻訳し、匿名性(フードや制服による顔の消失)・集団の規模・感覚的興奮が揃うと、個人は自らの行動への自己認識を失う——脱個性化(Deindividuation)——と主張した。「群衆に呑まれると人は理性を失う」というこの物語は、今も最も広く信じられている説明である。

だが、ここは正直に言わねばならない。この古典的な脱個性化理論は、現代の実証研究にほとんど支持されていない。ポストメスとスピアーズが1998年に60本の研究を統合したメタ分析は、「匿名の群衆が反規範的・反道徳的になる」という中核の主張を裏づけるデータはほぼ無い、と結論づけた。群衆の中の個人は理性を失うのではなく、むしろその場の集団に固有の規範に、いっそう従順になる。人はカラッポになるのではなく、従うべき行動基準を乗り換えるのだ。

サッカーの群衆を長年追ったスティーヴ・ライカーとクリフォード・ストットの研究も、同じ方向を指す。暴徒化は「理性の喪失」ではなく、相手集団——とりわけ警察——との相互作用の中で、「我々 対 奴ら」という対立の構図が現場で立ち上がる時に起きる。無差別・無目的どころか、その暴力は驚くほど標的を選び、集団の論理に沿って動く。

だからフーリガンは、理性を失った特殊な人格ではない。ここまで見てきた神経・心理のメカニズムが、環境要因(アルコール量、既存の暴力サブカルチャー、警察との対立構造、経済的鬱屈)で振り切れた結果である。フーリガン化は道徳の問題ではなく、環境と関係性の設計の問題として扱う方が、科学的にも正確なのだ。

第七の関門:集合的沸騰 — 宗教儀式と同じ回路

フランスの社会学者エミール・デュルケームは1912年、『宗教生活の原初形態』でオーストラリア先住民の儀式を分析し、「集合的沸騰(Collective Effervescence)」という概念を提出した。同じ動作を同期し、同じ歌を同時に歌い、同じ対象に注意を向ける時、群衆は個々人の生理を超えた一つの巨大な情動に融合する。

近年の実証研究は、これが比喩でないことを示している。儀式的に同期して動く集団では、参加者どうしの心拍リズムが揃っていく生理的同期が報告されている。そしてホルモンも動く。バーンハートとダッブスらの1998年の研究は、W杯の試合をテレビ観戦した男性ファンの唾液を分析し、勝利チームを応援した側ではテストステロンが上昇し、敗北した側では低下したことを示した。ピッチには一歩も立っていない、ただ「見ていた」だけの人間のホルモンが、選手と同じ方向に動いたのだ。

デュルケームが宗教儀式で観察したものと、W杯優勝夜の広場で起きていることは、社会学的にも生理学的にも、同じ現象である。

なぜ「無関心」だった脳は抵抗できないのか

以上の関門の大半は、意識の下で自動的に作動する。単純接触、ミラーリング、ドーパミンの予測誤差、オキシトシン、アイデンティティの切り替え、生理的な伝染——どれも「よし、熱狂しよう」と本人が決める前に発火している。だからこそ厄介なのだ。ただし、ひとつ誤解してはならない。群衆に入った人間は、理性を失って暴走する機械になるのではない。むしろ、その場の集団の規範に素早く乗り換える。抑制が消えるのではなく、従うべきルールが差し替わる——ここが、古い「群衆=理性喪失」像との決定的な違いである。

そして脳は最後に、後付けの物語を作る。「私は昔からスペインが好きだった」「サッカーは人生の一部だ」「あの試合は感動的だった」。この物語は熱狂の原因ではなく、熱狂の結果である。無関心から熱狂への移行は、意思決定ではなく、環境が神経回路を通過させた副産物である。

フーリガンと普通のサポーターの境界

もう一度確認しておきたい。フーリガンと歓喜の中で歌うだけの普通のサポーターの間には、質的な断絶はない。同じ七つのメカニズムが動いている。違いは環境の設計——血中アルコール濃度、群衆の密度、逃げ場の有無、対立相手との距離、警察の配置、既存の暴力文化への接続——だけである。

だから「フーリガンはけしからん」と道徳で断罪しても、次のW杯でも同じ現象は繰り返される。予防は、道徳教育ではなく、環境設計(アルコール規制、群衆の分散導線、混合ゾーンの物理的分離、逃げ場の確保)にしかない。これは既にヨーロッパのスタジアム設計や自治体の広場運用に、長年組み込まれてきた知見である。

熱狂は敵ではないが、自覚しないと乗っ取られる

七つのメカニズムは、ヒトが群れで生存するために進化させた社会的接着剤である。宗教、政治集会、企業の朝礼、家族の団欒、コンサート、選挙演説——すべて同じ神経回路を使っている。この回路を全否定することは、人間から社会性そのものを剥ぎ取ることに等しく、現実的でも望ましくもない。

だが、この回路が意識の外側で作動しているという事実だけは、知っておく価値がある。歓喜の夜、なぜ自分がここにいて何をしているのかを、一度だけでも脳の外側から観察する視点を持つこと。それだけで、群衆の勢いに呑まれて足を踏み外す手前で、立ち止まれる可能性は高まる。

日本の読者への解説

日本のサッカーファンは、世界的に「行儀がいい」ことで知られている。試合後にスタジアムのゴミを拾って帰る姿は、W杯のたびに海外メディアが驚きとともに報じる定番の光景になった。ここから「日本人は民族的に冷静で、フーリガンとは無縁だ」という結論を引き出したくなる。だが本稿がここまで見てきた通り、その推論は順序が逆である。

まず、日本も例外ではない。2023年8月2日、天皇杯の名古屋グランパス対浦和レッズ戦の直後、浦和の一部サポーターが暴徒化した。フェンスへの飛び蹴り、警備員を投げ飛ばす行為などが相次ぎ、確認された違反行為は40件、うち暴力行為は12件に上った。浦和は立ち入り禁止エリアへの侵入を主導した31名に9試合の入場禁止、統括リーダー格の1名に16試合の入場禁止を科し、日本サッカー協会の規律委員会はクラブに対し、2024年度天皇杯の参加資格剥奪と譴責という重い処分を下した。七つのメカニズムは日本人の脳でも同じように作動する。条件が揃えば、同じことが起きるのだ。

そのうえで、日本には世界に誇っていい成功例がある。2013年6月4日、W杯アジア最終予選でオーストラリアと1-1で引き分け、日本の本大会出場が決まった夜のことだ。渋谷スクランブル交差点に群衆が押し寄せる中、警視庁の機動隊員が拡声器で「みなさんは12番目の選手です」「そのような行為はイエローカードですよ」と語りかけ、対立ではなくユーモアで群衆を誘導した。のちにDJポリスと呼ばれるこの隊員は警視総監賞を受け、その手法は全国に広がった。

これは単なる美談ではない。本稿で紹介したライカーとストットの研究が示した原理の、ほぼ教科書的な実践である。彼らの結論はこうだった。群衆を敵と見なして強圧的に押さえ込むと、「我々 対 奴ら」の対立構図が現場で立ち上がり、それまで暴力と無縁だった多数派まで対決の物語に巻き込まれてしまう。逆に、群衆の中にある向社会的な規範——楽しく騒ぎたいだけで、迷惑をかけたいわけではない——を認め、それを味方につければ、群衆は自ら秩序を保つ。DJポリスは群衆に「あなたたちはサポーターであって、迷惑をかける人間ではない」というアイデンティティを手渡した。そして人は、与えられた自己像に沿って行動する。

日本とスペインで違うのは、脳ではなく設計である。スタジアムのアルコール規制、サポーター団体による自主警備の文化、警察の立ち位置、群衆の逃げ場の有無。この積み重ねが、まったく同じ神経メカニズムを持った人間の集団を、ゴミを拾うファンにも暴徒にも変える。だとすれば日本が持つべきは「自分たちは大丈夫だ」という安心ではない。浦和の事例が示すように、条件は日本でも簡単に揃う。そして逆に、スペインをはじめとする欧州が学べるものも、あの夜の渋谷の交差点には確かにあった。

W杯優勝の熱狂は、人間の脳が持つ最も原始的で強力な機能の展示である。それを楽しむのは自由だが、乗っ取られていることに気づかないのは危険である。歓喜の広場を歩きながら、自分の中で作動している七つのメカニズムに一度名前をつけてみる——それが、フーリガンにならないための、たぶん唯一の予防線である。

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