概要:スペインの「アキレス腱」を狙う情報キャンペーン

スペインのペドロ・サンチェス社会労働党政権が、ガザ情勢を巡りイスラエルに批判的な姿勢を強め、パレスチナ国家を承認して以降、奇妙な現象が起きている。米国とイスラエルの親イスラエル・保守派のシンクタンク、政治家、インフルエンサーらが、アフリカ大陸にあるスペインの二つの都市、セウタとメリリャを「スペインに占領されたモロッコ領」であり「植民地」であると主張する言説を、組織的に拡散し始めたのだ。これは単なる批判ではなく、スペインの主権に関わる最も敏感な部分、いわば「アキレス腱」を突くことで、サンチェス政権の外交姿勢を揺さぶろうとする高度な情報戦であり、地政学的な圧力活動である。本稿では、このキャンペーンの背景にある複数のアクターの思惑と、その構造を詳細に解説する。

キャンペーンの担い手と手法

この情報戦を主導しているのは、特定のネットワークだ。中心的な役割を果たしているのが、米国の親イスラエル・極右シンクタンク「中東フォーラム(Middle East Forum)」である。同フォーラムは、イスラム嫌悪的な言説を拡散しているとして批判されることもある組織で、「イスラエルの勝利プロジェクト」を掲げ、パレスチナ側に「敗北」を認めさせることを目標としている。同フォーラムの研究員マイケル・ルービン氏は、セウタ・メリリャへの移民流入危機が起こる数ヶ月も前に、「モロッコはセウタとメリリャに新たな『緑の行進』を送るべきだ」と題した論文を発表。サンチェス首相の「反植民地主義的レトリック」を逆手に取り、「スペインはアフリカの植民地占領を終わらせるべきだ」と主張した。この論文は、米国の主要な保守系シンクタンクである「アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)」にも転載され、影響力を増幅させた。

この言説は、ソーシャルメディア上のインフルエンサーによってさらに拡散される。イスラエルのネタニヤフ首相の息のかかった元広報担当者ハナニャ・ナフタリ氏や、首相自身の息子であるヤイル・ネタニヤフ氏などがその代表例だ。彼らは、スペインがパレスチナとの「二国家共存」を支持することを揶揄し、「ならばスペインも移民との二国家共存を認め、セウタとメリリャを解放すべきだ」といった趣旨の投稿を繰り返している。彼らは、イスラエルによるヨルダン川西岸地区(彼らが言うところのユダヤ・サマリア)の占領と、スペインによるセウタ・メリリャの領有を意図的に同一視し、「自国の植民地を維持しながらイスラエルを批判する資格はない」という論理でスペイン政府を攻撃しているのだ。

三者の利害が一致:親イスラエル派、米保守派、そしてモロッコ

この情報キャンペーンが強力なのは、異なる三つのグループの利害が奇妙に一致しているからだ。エルカノ王立研究所のダビド・エルナンデス氏が指摘するように、これは単一の組織が計画したものではなく、「親モロッコロビー」「親イスラエルロビー」「米国の保守派」という三者の思惑が一点に収斂した結果と見るべきだろう。

第一に、親イスラエル派の動機は明白だ。サンチェス政権は欧州の中でも特にイスラエルに批判的であり、パレスチナ国家の承認に踏み切った。彼らにとって、スペイン政府は格好の攻撃対象である。セウタ・メリリャ問題は、イスラエルの占領政策を正当化するための「対抗言説」として非常に都合が良い。

第二に、米国の保守派・トランプ支持層は、社会主義者であるサンチェス首相をイデオロギー的に敵視している。彼らは、スペインのNATOにおける防衛費負担の少なさや、移民政策への不満をかねてから表明してきた。スペインの主権という根本的な問題を提起することで、左派政権に揺さぶりをかけ、国内のナショナリストを煽る狙いがある。

そして第三に、最大の受益者はモロッコである。モロッコは何十年にもわたりセウタとメリリャの領有権を主張してきた。近年、イスラエルとの国交を正常化する「アブラハム合意」に署名したことで、モロッコはワシントンとエルサレムに強力な味方を得た。この新たな同盟関係をテコにして、長年の悲願である領土問題で有利な国際世論を形成しようとしている。つまり、親イスラエル派や米保守派が提供する「スピーカー」を通じて、自国の主張を世界に拡散させているのである。この三者の連携は、現代の国際政治におけるロビー活動と情報戦の複雑な様相を浮き彫りにしている。

歴史的・法的な文脈:なぜ「植民地」ではないのか

このキャンペーンの根幹にある「セウタ・メリリャは植民地」という主張は、歴史的・法的に見て極めて脆弱である。スペイン側から見れば、この主張は全くの事実に反する。

まず、歴史的に、メリリャは1497年に、セウタは1668年(ポルトガルから割譲)にスペイン領となっており、これは近代国家としてのモロッコが誕生した1956年よりもはるかに古い。これらの都市は、20世紀の「アフリカ分割」の中で生まれた植民地とは成り立ちが全く異なる。また、1912年から1956年まで存在した「スペイン保護領モロッコ」の一部であったことも一度もない。常にスペイン本土と同様の地位を持つ領土として扱われてきた。

法的な地位も明確だ。セウタとメリリャは、マドリードやバルセロナと同じスペイン憲法の下にある「自治都市」であり、住民はスペイン国民として国政選挙に参加し、欧州連合(EU)の市民でもある。最も重要な点は、国連の「非自治地域リスト」、すなわち脱植民地化の対象となる地域のリストに、これらの都市は一度も掲載されたことがないという事実だ。これは、モロッコが領有を主張する西サハラが同リストに掲載されているのとは対照的である。したがって、「植民地」というレッテルは、国際法的な根拠を欠いた、純粋に政治的なプロパガンダであると言える。

スペイン国内の反応:右派政党のジレンマ

興味深いのは、この外部からの攻撃がスペイン国内の政治に与える影響だ。通常、米国の保守派やイスラエルの右派は、スペインの右派政党である国民党(PP)や極右政党Voxの盟友と見なされている。彼らは反移民、強い国家といった価値観を共有している。しかし、セウタ・メリリャの主権が問題になると、この構図は一変する。

Voxのサンティアゴ・アバスカル党首やホルヘ・ブクサデ欧州議会議員は、イスラエルの国連大使やネタニヤフ首相の息子による「セウタ・メリリャは植民地」との主張に対し、「無知で軽薄だ」「スペイン国家の一体不可分な領土だ」とソーシャルメディア上で猛反発した。彼らにとって、国家主権と領土の一体性は絶対に譲れない一線であり、たとえイデオロギー的な盟友からの発言であっても容認できないのだ。この一件は、グローバル化する右派ポピュリズムの連帯が、各国のナショナリズム、特に領土問題という核心的利益の前ではいとも簡単に瓦解しうることを示している。サンチェス政権を攻撃するための外部からの「援護射撃」は、結果的にスペインの右派を非常に気まずい立場に追い込み、彼らの同盟関係の脆さを露呈させた。

日本の読者への解説

一見、遠い国の領土問題に見えるこの一件は、現代の国際関係における重要な教訓を日本の読者に提示している。第一に、これは領土問題が外交的な圧力カードとしていかに容易に利用されるかという実例である。日本も北方領土や尖閣諸島といった領土問題を抱えている。特定の国との関係が悪化した場合、第三国のシンクタンクや政治勢力が日本の領土問題を意図的に取り上げ、歴史を歪曲した言説を流布し、日本政府に圧力をかけるというシナリオは十分に考えられる。セウタ・メリリャの事例は、そうした情報戦・世論戦への備えの重要性を示唆している。

第二に、シンクタンクやSNSを駆使した「新しい戦争」の形である。かつてのプロパガンダとは異なり、現代の情報戦は、友好国や同盟国内の特定の政治勢力と連携し、対象国の内政を直接的に揺さぶる。米国のシンクタンクが発信した言説が、イスラエルのインフルエンサーによって拡散され、スペイン国内の政治対立を煽る。このような国境を越えた連携による世論形成は、日本の外交・安全保障政策においても無視できない脅威となりうる。

第三に、政治的同盟の複雑性である。スペインの右派政党が直面したジレンマは、日本にも当てはまる可能性がある。イデオロギーや安全保障観を共有する海外の政治勢力と連携を深めることは、外交上有効な手段である一方、その同盟相手が日本の国益、特に領土主権のような根本的な問題と相反する行動を取るリスクも存在する。国際的な連携を追求する際には、相手の思惑を多角的に分析し、自国の譲れない一線を明確にしておく必要があることを、このスペインの事例は教えてくれる。

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