発端はフランコ独裁からの亡命者救済

スペインの司法が、その政治的中立性をめぐり、深刻な危機に直面している。最高裁判所は2026年9月、サンチェス左派連立政権が成立させた「民主的記憶法」に基づきスペイン国籍を回復した数十万人の選挙権を、予防的措置として停止するという前代未聞の決定を下した。この決定は、右派野党Voxが提起した異議申し立てを受けたものであり、司法が政治闘争の主戦場と化している現状を浮き彫りにした。

問題の根源にあるのは、2022年10月に施行された「民主的記憶法」である。この法律は、スペイン内戦(1936-39年)とそれに続くフランコ独裁政権下で、政治的、思想的、あるいは性的指向などを理由に国外への亡命を余儀なくされた人々とその子孫の名誉を回復し、救済することを目的の一つとしている。その一環として、亡命者の子や孫がスペイン国籍を取得または回復できる道が開かれた。

国籍付与の運用にあたり、法務省は通達を発出した。90年近く前の亡命理由を一人ひとり証明するのは事実上不可能に近いケースが多いため、実務的な措置として「1936年7月18日から1955年12月31日までの間にスペインから出国した者」については、政治的亡命者であると推定するという基準を設けた。この基準は、2008年に社会労働党(PSOE)のサパテロ政権下で制定された同様の法律(歴史的記憶法)で用いられたものを踏襲しており、当時は大きな論争を呼ばなかった。しかし、現在の極度に分極化した政治状況下で、この運用が右派・極右勢力から「サンチェス政権が選挙目当てで左派支持の有権者を大量生産している」という攻撃の的となったのである。

最高裁による「法的奇策」と異例の判断

極右政党Voxは、この法務省通達が選挙の公正を歪めるとして中央選挙管理委員会に異議を申し立てたが、却下された。これを不服として最高裁に上訴した結果が、今回の選挙権停止という驚くべき決定である。この決定は、法曹界からも多くの批判を浴びており、その理由は多岐にわたる。

第一に、時間的な問題である。問題とされた法務省通達は4年前に官報に掲載されており、異議申し立て期間(通常2ヶ月)をはるかに過ぎている。本来、司法判断の対象となり得ないはずのものを、選挙管理委員会への不服申し立てという迂回路を使って事実上審理した形であり、法的手続きの逸脱との批判は免れない。

第二に、基本的人権の侵害という深刻な問題をはらむ。選挙権は憲法で保障された最も重要な国民の権利の一つであり、非常事態宣言下ですら停止できないと定められている。それを、司法プロセスに直接関与していない数十万人の市民に対して、弁明の機会も与えずに予防的措置として停止することは、極めて異例かつ権力の乱用に映る。

第三に、判断の矛盾である。最高裁は、これらの人々のスペイン国籍そのものは剥奪していない。つまり、彼らはスペイン国民であり続けるが、国民の最も基本的な権利である投票権だけが行使できなくなるという、法的に極めてアンバランスな状態を生み出した。これは「保護すべき利益と措置の均衡が取れていない」という比例原則に反するとの指摘が強い。

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保守派優位の司法府、その構造的背景

なぜ最高裁がこのような政治的に踏み込んだ、かつ法的に疑義の多い判断を下したのか。その背景には、スペイン司法府、特に最高裁や憲法裁判所といった上級審の著しい保守化と、それを生み出す構造的な問題がある。

スペインでは、最高裁判事などの重要ポストは、司法総評議会(CGPJ)によって任命される。CGPJの評議員は国会によって選出されるため、その構成は政党間の力学を強く反映する。特に近年、保守派の国民党(PP)は、政権を失うとCGPJの評議員交代人事を阻止し、保守派優位の構成を任期満了後も維持し続けるという戦術を常套化させている。これにより、長年にわたって保守派が指名した判事が司法府の上層部を固めるという「ねじれ」が生じている。

今回の決定を下した最高裁の法廷も、その構成が象徴的だ。判事6人のうち5人が保守派とされ、国民党政権下で要職を歴任したり、同党に近い経歴を持つ人物が並ぶ。報告書をまとめたアントニオ・ナルバエス判事は、過去に国民党党首を前に「あなたが首相になることを望む」と発言したことが報じられた人物でもある。唯一の進歩派とされる女性判事は、この決定に反対し、痛烈な批判を記した反対意見書を提出している。このような5対1という構成は、偶然ではなく、長年の政治的ブロックによって作り出された司法の歪んだ現状を映し出している。

「不正選挙」陰謀論と司法の役割

この一件は、米国などで見られる「不正選挙」という陰謀論が、スペインでは司法の最高機関によってお墨付きを与えられかねない危険な段階に至っていることを示している。右派・極右勢力は、「民主的記憶法」による国籍回復者を「サンチェス政権が票田として輸入した偽りの国民」と描き出し、選挙の正当性を揺さぶろうと試みてきた。

しかし、事実はこの主張とは異なる。在外スペイン人の投票率は伝統的に10%前後と極めて低く、選挙結果全体に与える影響は限定的だ。実際に、在外投票が選挙区の議席を左右した直近の例は2023年の総選挙だが、この時議席を獲得したのは国民党(PP)であり、左派政権に有利に働くという主張は根拠を欠いている。そもそも、亡命者の子孫がどのような政治的信条を持つかは多様であり、全員が左派に投票すると仮定すること自体が乱暴な決めつけである。

本来、こうした根拠のない陰謀論から選挙プロセスの公正さを守るのが司法の役割であるはずだ。しかし今回の最高裁の決定は、むしろ陰謀論に加担し、それを正当化するような効果をもたらしてしまった。市民の司法への信頼を損なうだけでなく、民主主義の根幹である選挙制度そのものへの不信感を煽る結果となっている。

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日本の読者への解説

このスペインの事態は、日本の読者にとっても対岸の火事ではない。いくつかの点で、日本の状況と比較し、教訓を引き出すことができる。

第一に、司法の任命プロセスと政治的中立性の問題である。日本では、最高裁判所長官は内閣が指名し天皇が任命、その他の判事は内閣が任命する。形式上は政治権力が任命に関与するが、長年の慣行として、裁判官、弁護士、検察官、学者などからバランスを取って選ばれることが多く、スペインのように政党が露骨な人事介入を長期間にわたって行い、司法全体の思想的バランスを極端に偏らせるという事態は起きていない。また、衆院選と同時に行われる最高裁判事の国民審査は、国民が司法をチェックする貴重な機会であり、スペインにはない制度だ。スペインの事例は、司法の独立と中立性を維持するための制度設計がいかに重要であるかを物語っている。

第二に、「ローフェア(Lawfare)」、すなわち司法の武器化という現象である。政敵を失脚させるために、あるいは政治的目的を達成するために、法的手続きを濫用する動きは世界的な潮流となりつつある。スペインでは、政権と司法府の対立という形で先鋭化しているが、日本においても、特定の政治課題をめぐって訴訟が頻発したり、検察の捜査が政治的影響力を持つ場面は見られる。司法が政治闘争の代理戦争の場となることの危険性を、スペインの混乱は示している。

最後に、歴史問題と現代政治の連動である。この問題の根底には、フランコ独裁というスペインの暗い過去をどう清算するかという、未解決の歴史問題がある。歴史の解釈が、国籍や選挙権といった現代市民の具体的な権利に直結し、国家を二分する対立に発展している。日本もまた、近現代史をめぐる様々な問題を抱えている。歴史問題が単なる過去の出来事ではなく、現代社会の分断を煽り、民主主義の基盤を揺るがしかねない強力な政治的エネルギーを持つということを、スペインの事例は教えてくれる。

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