移籍市場が最も動く8月に入っても、久保建英に関する報道はほとんど出てこない。レアル・ソシエダ加入以来、最も静かな夏である。スペインの地元紙が伝えるところでは、この夏クラブに届いた具体的なオファーはなく、市場価値は2024年1月の6,000万ユーロから2,000万ユーロまで落ちた。かつて名前が挙がったリバプール、トッテナム、エバートンといったプレミアリーグのクラブは、現在は補強候補として見ていないとされる。一方で契約は2029年まで残り、違約金は6,000万ユーロに据え置かれている。市場が値付けする額と、クラブが手放す条件との間に3倍の開きがある状態だ。久保はワールドカップで負った膝の負傷から戻り、代表組では最初にプレシーズンに合流した。ペレグリーノ・マタラッツォ監督の下で、ソシエダでの6シーズン目を迎える。この記事では、なぜ今年に限って市場が静まり返ったのか、その構造を数字から読み解く。
数字で見る現在地
2025-26シーズンのリーガでの成績から確認する。
出場24試合、1,508分、2ゴール4アシスト、イエローカード2枚。得点はいずれもアウェーゲームで記録されたもので、ホームでの得点はなかった。
1,508分という数字は、フル出場に換算すれば17試合弱にあたる。24試合に出ながらこの数字ということは、途中出場や途中交代が相当数あったことを意味する。シーズンを通して主力として計算されつつも、90分を託され続ける立場ではなかったことが読み取れる。
得点関与6という数字は、攻撃的なウインガーとしては物足りない。ソシエダでの過去のシーズンと比べても下降線にある。地元紙は「光と影が混じるシーズンで、負傷が決定的な場面での出場を妨げた」と総括している。
そして市場価値である。2024年1月の時点で6,000万ユーロと評価されていたものが、現在は2,000万ユーロとされる。2年半で3分の1になった計算になる。市場価値は各種データ会社の推計値であり、実際の取引額とは別物だが、市場がどう見ているかの指標としては機能する。
関心が消えていった経緯
数年前まで、久保をめぐる夏の報道は毎年にぎやかだった。
リバプール、トッテナム、エバートンといったプレミアリーグのクラブが関心を示しているという報道が、シーズンの節目ごとに出た。バイエルンの名前が挙がったこともある。買い取りオプション付きのレンタルという具体的な形での提案が伝えられたこともあった。
それが今夏は消えた。スペインの複数の媒体が、この夏の状況を「オファーはない」と明確に書いている。あるスポーツ紙は現状を「良いニュースとは、ニュースがないことだ」と皮肉まじりに表現した。移籍の噂が立たないことを、クラブにとっての朗報として書かざるをえないほど、市場が静かだということである。
ここで注意しておくべきなのは、「関心がない」ことと「評価が低い」ことは同義ではないという点だ。市場が動かない理由は、選手の能力とは別の要素で決まることが多い。
なぜ売れないのか ― 3倍の開き
最大の要因は、違約金と市場価値の乖離にある。
久保の契約には6,000万ユーロの違約金が設定されている。スペインのリーガでは、この額を一括で支払えば選手は移籍できる。クラブの同意は必要ない。逆に言えば、それ以下の額で獲得するにはソシエダとの交渉が必要になる。
一方で市場の評価額は2,000万ユーロ前後である。買い手の立場からすれば、2,000万ユーロの価値と見ている選手に、6,000万ユーロを積む理由はない。かといって2,000万ユーロで打診しても、ソシエダが応じる保証はない。交渉を始める前から、双方の想定額に3倍の開きがある。この状態では、そもそも打診が起きない。
ソシエダ側にも売り急ぐ理由がない。契約は2029年まで残っており、あと3年ある。契約が短ければ「今売らないとゼロになる」という圧力が働くが、その段階ではない。
さらに、選手の年俸も見えない壁として働く。久保は5シーズンを主力として過ごしてきた選手であり、ソシエダの給与体系の中で相応の待遇を得ていると推測される。獲得を検討するクラブは移籍金だけでなく年俸も引き受ける必要があり、直近の成績が下降しているときには、その合計額が判断を鈍らせる。
そこに負傷歴が重なる。2026年1月にはハムストリングを痛め、6月にはワールドカップで膝を負傷した。オランダとの試合での負傷だったと報じられている。移籍市場において、シーズンをまたぐ負傷の連鎖は、価格交渉で最も不利に働く要素の一つである。
膝の状態と、プレシーズンの合流
久保はワールドカップに出場した選手の中で、最初にソシエダのプレシーズンに合流した。
クラブの練習拠点ズビエタでの最初の作業は、膝の状態を確認するための負荷テストだった。マタラッツォ監督は復帰した久保を抱擁し、膝について短く言葉を交わしたと伝えられている。
ワールドカップ期間中の負傷から復帰までの期間を考えると、深刻な手術を要する種類のものではなかったと推測される。ただし膝の負傷は、復帰の時期よりもその後のパフォーマンスの戻り方に差が出る部位である。プレシーズンでどこまで負荷をかけられるかが、シーズン序盤の起用に直結する。
クラブの方針は、継続性を確保しつつ選手を最良の状態に戻すことだと報じられている。売却を前提とした調整ではなく、戦力として計算する前提の扱いである。
マタラッツォ体制での位置づけ
ペレグリーノ・マタラッツォ監督にとって、久保は「違いを生む駒」として期待される選手である。
これは称賛であると同時に、条件でもある。違いを生むことが期待される選手が違いを生まなかったシーズンの後で、同じ期待をかけられて6シーズン目に入る。地元紙が「またしても試験の年」という趣旨で書いているのは、この構造を指している。
久保にとって、この夏に移籍の話が来なかったこと自体は、むしろ整理された状況とも言える。移籍の噂が立つ夏は、プレシーズンの集中を削ぐ。今年はその要素がない。契約は3年残り、監督は戦力として見ており、負傷から戻ってきたばかりで、周囲は静かである。
ただし、この静けさが来年も続くとは限らない。6月に25歳になった選手にとって、市場価値が3分の1になった状態から評価を戻す機会は、そう何度もない。次の移籍市場で再び動きがなければ、それは「今年は静かだった」ではなく「市場から外れた」を意味し始める。
日本の読者への解説
日本の報道と現地の報道で、最も違うのは扱いの温度である。
日本のスポーツ媒体では、久保に関する記事は「複数クラブが関心」「移籍の可能性」という見出しで出ることが多い。関心を示したという一報は記事になるが、その関心が立ち消えたことは記事にならない。結果として、関心の話だけが積み上がっていく。
現地紙の書き方は逆で、今夏は「オファーがない」「関心が明らかに薄れた」と正面から書いている。バスクの地元紙にとって久保は日々追いかける対象であり、市場の温度をそのまま報じる。この差を知っておくと、日本語で流れてくる移籍情報の読み方が変わる。
もうひとつ、違約金という仕組みについて。スペインのリーグでは全選手の契約に違約金の記載が義務づけられており、その額を払えば移籍が成立する。日本のJリーグやプレミアリーグには同じ制度がない。この仕組みは選手の流出を防ぐ壁として機能する一方で、額の設定を誤ると売りたくても売れない、買いたくても買えないという膠着を生む。久保の6,000万ユーロは、評価が高かった時期に設定された数字が、そのまま残ってしまった形である。
最後に、これは移籍の記事であって、能力の評価ではないことを付け加えておく。市場が静かであることと、選手が終わっていることは別の話だ。ソシエダで6シーズン目を迎える25歳が、負傷から戻った体でどこまでやれるか。答えが出るのは市場ではなく、8月に始まるリーガのピッチの上である。













