序論:映画監督から多作な作家へ

ライアン・レイノルズが終始棺の中にいるという衝撃的な設定のスリラー『[リミット]』(原題: Buried)や、ロバート・デ・ニーロとシガニー・ウィーバーが共演した『レッド・ライト』などで、国際的に知られるスペインの映画監督ロドリゴ・コルテス。鋭い人間心理の描写と、観客の意表を突く巧みなストーリーテリングで評価を確立してきた彼が、近年、文学の世界でも驚くべき才能を発揮している。過去6年間で5冊の書籍を上梓するという、単なる「趣味」の域をはるかに超えた精力的な活動は、彼を映画監督であると同時に、真摯な「作家」として位置づけるに十分だ。そのコルテスが、最新長編小説『Hija del cielo』(天の娘)の刊行に際して応じたインタビューで、自らの創作哲学、特に芸術とそれを受け取る「人々」との関係について、挑発的とも言える持論を展開した。本稿では、彼の言葉を深く掘り下げ、その思想がスペインの文化的土壌の中でいかにして形成されたのか、そして日本の我々にとってどのような意味を持つのかを考察する。

新作『天の娘』が探るカトリックと狂気の境界

コルテスの新作『Hija del cielo』は、海に面した北部の架空の村ガバオンにある、孤児院か修道院のような学校の、窓のない一室に閉じ込められた少女の物語だ。少女は悪魔に取り憑かれていると噂されるが、小説はすぐにその見方に疑問を投げかける。彼女は本当に憑依されているのか、病んでいるのか、狂っているのか、あるいは単に「変わっている」だけなのか。物語は濃い霧の中を進むように、神聖と邪悪、善と悪の区別を曖昧にしていく。コルテス自身、この物語を「地図も羅針盤も持たずに」書き始めたと語る。まず少女を取り巻く環境と人物を定義していく中で、最後に悪魔憑きと噂される少女自身が登場したという。この手法は、彼の創作が予定調和を嫌い、直感と発見に導かれていることを示唆している。特に注目すべきは、少女が使う「破壊された統語法」だ。物語が進むにつれて崩壊していく彼女自身の言語を構築する作業は、「直感的な部分が大きく、考えすぎずにその流れに身を任せる必要があった」とコルテ-スは振り返る。限られた語彙で複雑な現象に名前をつけようとする子供の思考を、作為的にならずに自然に表現すること。それは、言葉そのものの力と限界を探る試みでもあった。この小説の背景には、スペイン文化に深く根ざしたカトリックの世界観が色濃く反映されている。コルテスの母方の親族には3人の修道女と1人の神父がおり、彼にとってカトリックの世界は幼い頃から身近なものだった。しかし、彼自身は宗教的な人間ではないと公言する。この距離感が、カトリックの持つ神秘的な儀式や連祷といった要素を「文学的に魅力的」な素材として客観的に捉えることを可能にしている。彼は信仰の是非を問うのではなく、それが人間の精神に与える影響や、信仰と狂気が交錯する領域そのものを文学の舞台として描き出そうとしているのだ。

「大衆は存在しない」――芸術と受け手をめぐるラディカルな考察

インタビューの中で最も核心的で、彼の思想を象徴するのが「人々(la gente)という概念は存在しない。それは我々が自らを正当化するために使う空虚な理念(entelequia)だ」という発言である。これは、現代のエンターテインメント業界やメディアが金科玉条のように掲げる「大衆のニーズ」という考え方に対する、根本的なアンチテーゼだ。コルテスによれば、作り手は常に、自らが作りたいものを正当化するために、都合の良い「大衆像」を捏造する。例えば、難解なアート映画を撮る監督は「人々は愚かな扱いにうんざりしており、もっと深遠なものを求めている」と主張する。一方で、派手なアクション映画を撮る監督は「人々は日々の苦労で疲れているのだから、現実逃避できる娯楽を求めている」と語る。どちらの「人々」も、作り手の欲望を投影した幻影に過ぎない、とコルテスは喝破する。彼は「人々が賢いか愚かか、私には分からない。しかし、彼らが愚かであるかのように振る舞うことはできない」と続ける。作り手がすべきことは、漠然とした「大衆」を想定して作品の水準を調整することではなく、個々の読者や観客に対して敬意を払い、彼らを導こうとしたり、言いなりになったりしないことだと主張する。この思想は、世の中の出来事に対する「同調的すぎる反応」への彼の懐疑的な視点とも繋がっている。十分な思考や消化を経ずに、あまりにも多くの人々が全く同じ解釈を瞬時に下すとき、彼はそこに不自然さと危うさを感じるという。これは、芸術の受け止め方だけでなく、現代社会における世論形成の在り方そのものへの鋭い批評と言えるだろう。

言葉への信仰:エクソシストと作家の共通点

コルテスは、小説のテーマであるエクソシズム(悪魔祓い)と作家の仕事の間に、興味深い類似点を見出している。それは「言葉に対する恐るべき信仰」だ。エクソシストも作家も、言葉がなぜ機能するのかを完全には理解していない。しかし、両者とも、言葉が持つ力を何度も目の当たりにしてきた経験から、その力を信じ、行使する。エクソシストが儀式の中で唱える言葉の連なりが、現実世界に秩序をもたらす効果を持つと信じられているように、作家もまた、言葉の配列によって読者の心の中に世界を構築し、感情を揺さぶることができる。この「言葉への信仰」は、コルテスの文学的関心の中心にある。彼は、メキシコの修道女詩人ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの詩を読んだ時の体験を例に挙げる。その詩の全ての行を学者のように分析しようとすれば、その本質を見失ってしまう。むしろ、声に出して読み、言葉の響きや、そこから生まれる抽象的なイメージ、感覚のうねりに身を委ねることでしか、その作品の力に触れることはできない。これは、彼の小説作法にも通底している。論理や理屈で固めるのではなく、言葉そのものが持つ音やリズム、そしてそれが内包する神秘的な力に信頼を置く。彼の作品が、しばしば物理法則から逸脱し、登場人物が浮遊したり、不可解な現象が起きたりするのも、物語が表現しようとする「小さな真実」のためには、現実世界の法則よりも物語自身の法則が優先されるべきだという信念の表れなのだ。

日本の読者への解説

ロドリゴ・コルテスの創作哲学は、一見スペイン特有の文化的文脈に根差しているように見えるが、日本の私たちにとっても多くの示唆に富んでいる。第一に、芸術における宗教の役割の違いだ。コルテスの作品がカトリックの持つ罪、神秘、形而上学的なドラマを源泉としているのに対し、日本の多くの物語では、神道や仏教はより日常に溶け込んだ、あるいは美学的・民俗学的なモチーフとして扱われることが多い。「悪魔憑き」という概念が持つ、人格の根幹を揺るがすような深刻な響きは、一神教的な世界観を持つスペインと、多神教的な文化を持つ日本とでは、その重みが異なるだろう。コルテスの作品は、そうした文化的背景の違いを認識する上での好例となる。第二に、そしてより重要なのは、「大衆は存在しない」という彼の批評が、日本社会にもそのまま当てはまる点だ。日本のメディアや政治、マーケティングの世界では、「国民の皆様」「日本人の総意」といった言葉が頻繁に使われる。しかし、それは多くの場合、特定の意図を正当化するために作り上げられた、均質で物言わぬ「大衆」のイメージに過ぎない。コルテスが胡散臭さを感じる「同調的すぎる反応」は、まさに日本社会で「空気を読む」ことが過剰に求められる現象と重なる。彼の視点は、私たちが無意識のうちに従っている同調圧力や、メディアによって作られる「世論」に対して、健全な懐疑心を持つことの重要性を教えてくれる。最後に、作り手と受け手の関係性についての彼の考え方も普遍的だ。読者や観客を「牧羊」すべき対象と見なさないという彼の態度は、日本のクリエイターにとっても重要な問いを投げかける。果たして、作り手は「ウケる」とされる要素を計算して作品を作るべきか、それとも受け手の知性を信じ、挑戦的な作品を提示すべきか。コルテスの妥協のない姿勢は、商業主義が支配する現代において、芸術が本来持つべき矜持とは何かを改めて考えさせてくれるのである。

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