前例なき国境危機と不可解な政府の反応
7月30日から31日にかけての48時間で、7万2000人以上がモロッコからスペインの北アフリカ領セウタに越境を試みた。その多くは泳いで境界を越え、街は前例のない人道的、社会的混乱に陥った。この種の危機では、通常モロッコ当局による国境管理の「意図的な緩和」が疑われる。事実、2021年には西サハラ問題を巡る外交的報復として、モロッコは同様の事態を意図的に引き起こした過去がある。しかし今回、サンチェス政権はアルバレス外相を筆頭に、一貫してモロッコの関与を否定し、むしろその協力体制を賞賛するという異例の対応を見せた。この不可解とも言える姿勢の裏には、SNS時代の偽情報が引き起こす新たな脅威と、スペインが抱える抜き差しならない地政学的現実が複雑に絡み合っている。
政府が描く事件の構図:「最高裁判決」と「国際反動主義ネットワーク」
スペイン政府が公式に提示する事件のシナリオは、モロッコを主犯とするものではない。アルバレス外相らが議会で説明した経緯はこうだ。まず発端となったのは、7月8日にスペイン最高裁判所が下した判決だった。この判決は、海を泳いでセウタやメリリャに到達した移民を、法的手続きを経ずに即座にモロッコ側へ送り返す、いわゆる「即時送還(devoluciones en caliente)」を違法とするものだった。この判決自体は、特定のケースに対する法的判断であり、国境を全面的に開放するものでは全くない。
しかし、この判決内容がアラビア語に翻訳され、SNS上で拡散される過程で、「スペインが海からの移民を全員受け入れる」という全くの偽情報へと歪められていった。人身売買に関わるデジタルインフラがこの「機会」を捉え、7月27日頃から情報が爆発的に拡散。特に、二人の女性が泳いでセウタに渡る動画が数百万回再生され、モロッコ国内のインフルエンサーもこれを煽った。政府の分析によれば、7月30日にはデジタル上の活動が「爆発的」になり、群衆が国境に殺到した。さらに、この偽情報の拡散には、ドナルド・トランプ氏やX(旧Twitter)のオーナーであるイーロン・マスク氏を含む、米国のオルタナ右翼に連なる「国際的な反動主義ネットワーク」が関与し、英語圏での情報拡散の4割近くを占めたと指摘。政府は、この危機を「モロッコによる国家的な圧力」ではなく、「最高裁の判決を悪用した偽情報と、それに便乗した人身売買組織、そして国際的な極右勢力による複合的な攻撃」と位置付けているのだ。実際に越境者の9割が迅速に送還されたことや、8月15日に計画された第二波の越境の試みをモロッコ当局が阻止したことを、両国の「良好な協力関係」の証拠として挙げている。
モロッコ免責論の裏にある地政学的力学
政府の公式説明は一見すると筋が通っているが、連立政権内の少数与党であるスマール(Sumar)の閣僚からは「7万人が動くのをモロッコが知らないはずがない」という懐疑的な声が漏れるなど、完全に一枚岩ではない。多くの専門家や国民がモロッコの「少なくとも黙認」を疑う背景には、やはり2021年の危機がある。当時、西サハラの独立を目指すポリサリオ戦線のブラヒム・ガリ指導者がスペイン国内の病院で治療を受けたことへの報復として、モロッコは意図的にセウタ国境を開放。当時の駐スペイン・モロッコ大使は「行動には結果が伴う」と公言し、移民の流入を外交カードとして使ったことを隠そうともしなかった。
今回、スペイン政府がモロッコを擁護する最大の理由は、この2021年の危機以降、サンチェス政権がモロッコとの関係修復のために払った多大な外交的コストにある。2022年、スペインは西サハラ問題において、国連決議に基づく住民投票を支持するという長年の中立政策を転換し、モロッコが提案する自治権拡大案を支持するという歴史的な方針転換を行った。これは、モロッコ側の機嫌を損ねないための大きな譲歩であり、この譲歩によって、移民管理、テロ対策、経済協力といった多岐にわたる分野でモロッコとの関係を安定させることを選んだのだ。この戦略的判断がある以上、今さらモロッコを非難することは、自らの外交政策の失敗を認めるに等しい。移民の流入という「戦術的」な問題で、モロッコとの協力関係という「戦略的」な基盤を揺るがすことはできない、というのがサンチェス政権の偽らざる本音だろう。モロッコは、スペインだけでなく欧州連合(EU)全体にとって、アフリカからの不正規移民を食い止める「防波堤」の役割を担っている。この協力なくして、カナリア諸島ルートを含む移民ルートの管理は不可能であり、スペインはその「現実」を直視せざるを得ないのだ。
日本の読者への解説
このセウタの危機は、遠いアフリカ大陸の出来事でありながら、現代国家が直面する複数の課題を浮き彫りにしており、日本の読者にとっても示唆に富む。第一に、「移民の兵器化(weaponization of migration)」という地政学的な現実である。日本は四方を海に囲まれており、陸路で大量の移民や難民が押し寄せるという事態を経験したことがない。しかし、スペインとモロッコの関係が示すように、国境を接する国が意図的に移民や難民を送り込むことで、相手国に政治的・社会的な圧力をかける手法は、ベラルーシがEUに対して行ったように、現代の紛争における常套手段となりつつある。これは、物理的な国境管理だけでなく、相手国との外交関係そのものが安全保障の最前線となることを意味する。
第二に、偽情報がもたらす安全保障上の脅威だ。今回の危機は、軍事攻撃やサイバー攻撃ではなく、国内の「最高裁判決」という正当な司法判断が、SNSを通じて歪曲・増幅されることで、物理的な国境の混乱と国家的危機に直結したという点で極めて現代的である。これは、国内の法制度や社会の出来事すべてが、悪意ある外部のアクターによって攻撃の材料とされうることを示している。日本においても、特定の法改正や判決、あるいは災害対応などが、外国語に翻訳され、文脈を無視した偽情報として拡散されれば、国内の分断を煽ったり、国際的な信用を失墜させたりするリスクは常に存在する。デジタル空間における防衛という課題の重要性を、セウタの事例は突きつけている。
最後に、民主主義国家が権威主義的な隣国と向き合うことの難しさである。法の支配を重んじるスペインは、自国の最高裁の判断を尊重しなければならない。一方で、隣国モロッコは、国境管理の蛇口をいつでも開閉できるという強大な非対称的なカードを握っている。理想や原則だけでは国境の安定は保てず、時には不本意な譲歩や取引を伴う「現実政治(リアルポリティーク)」が不可欠となる。このジレンマは、より強力な権威主義国家と隣接する日本にとっても、決して他人事ではないだろう。













