スペイン東部バレンシア州のブニョール(Buñol)は、2026年8月26日水曜日の正午、真っ赤な海に沈んだ。世界最大のトマト投げ祭り「ラ・トマティーナ(La Tomatina)」の第79回大会が、22,000人の参加者と15万キロのトマトを動員して開幕したのだ。前年比3万キロ増、参加国数はスペイン語圏・英語圏・アジア圏を横断し、約1時間の「食べ物戦争」に町は文字通り水没した。町の副市長で祭事担当のセルヒオ・ガラルサ(Sergio Galarza)氏は今大会について「誰にでも開かれた、より入りやすいトマティーナ」と語る。1945年の少年たちの喧嘩から始まった地方祭がいかにして世界的観光資源になったのか、そして「アクセシブル化」の意味――現地取材と当局発表をもとに、2026年版の全貌を整理する。
正午12時、赤い一発の号砲
祭りの主戦場はブニョール旧市街のプラサ・デ・ロス・チョロス(Plaza de los Chorros)から続く狭い坂道だ。祭りの流れは毎年ほぼ同じで、2026年も踏襲された。
- 朝9時――参加者は町の入口4か所のチェックポイントで、事前購入したチケット(15ユーロ)と交換にリストバンドを受け取る。今大会からリストバンドはRFID内蔵で、混雑管理のリアルタイム把握が導入された。
- 10時――伝統の「パロ・ハボン(palo jabón、石鹸ポール)」が始まる。石鹸を塗った高さ約6メートルのポールの頂上にハムを結び、参加者が肩車で登ってハムを取れば、正式にトマト投げ開始の合図とされる。今年は開始から11分でハムが落ちた。
- 11時――町の細道に大型トラック6台が入り、15万キロのトマトを路上に降ろす。トマトはバレンシア州のトマト農家から祭り用の熟しすぎた B級品を集めたもので、廃棄予定のトマトを農家から適正価格で買い上げる仕組みだ。
- 12時ちょうど――町の中心から一発の花火(カーカサ)が鳴る。同時にトラック上のスタッフが両手でトマトを掴んで路上に投げ入れ、参加者たちも一斉に投げ合いを開始する。
- 13時――再び花火が鳴り、投げ合いが終了する。参加者は町の消防が用意した放水ホースで洗い流され、周辺の川で泳ぐ人もいる。
2026年大会のトマトは15万キロ。前年(80周年を記念した第78回)の12万キロから3万キロ増と発表された。ブニョール町役場によると、この増加は入場者数の増加ではなく「1人あたりの投擲量を上げるため」だという。22,000人×1時間で計算すると、1人あたり毎分約115グラムのトマトが空を飛ぶ計算になる。
1945年、少年たちの喧嘩から
ラ・トマティーナの起源は諸説あるが、最も広く受け入れられているのは1945年8月最終水曜日の逸話だ。町の中心プラサ・デル・プエブロで開かれた「巨人と大頭(Gigantes y Cabezudos)」の伝統仮装パレードに紛れ込もうとした若者たちが、参加を拒まれて激怒し、近くの野菜屋台からトマトを投げ始めた――というのが定説だ。翌年、同じ若者たちが「今度は自分たちのトマトを持ってきて」再演したのが、祭りの誕生とされる。
フランコ政権期の1957年、当局はこの「無政府的な祭り」を禁止した。町民は棺桶を担いだ「トマティーナの葬列」で抗議し、1959年に条件付きで再開が認められる。1975年のフランコ体制終結後、祭りは急速に大衆化し、1980年代にはスペイン国内で有名になった。国際的にはBBCの1983年報道が転換点で、以後は世界中から観光客が集まる祭りとなった。2002年にスペイン政府が「国際的観光関心を持つ祭り(Fiesta de Interés Turístico Internacional)」に認定している。
2013年には入場料15ユーロ、事前予約制、参加者上限22,000人という現行モデルが導入された。それまでは無制限で、50,000人を超える年もあり、狭い旧市街での窒息事故や踏まれ事故が深刻な問題だった。上限導入以降、重大な事故は発生していない。
今年の変化――「より開かれた」祭りへ
2026年大会の目玉として、副市長ガラルサ氏が繰り返し強調したのが「アクセシビリティ」だ。具体的には次の3点が実施された。
- 車椅子アクセスゾーンの拡大――町の入口近くに、車椅子利用者と付き添い者向けの観覧・参加専用エリアを新設。トマトの飛距離を考慮して安全距離を確保しつつ、投げ合いに参加できる設計。
- 多言語スタッフの配置――今年は英・仏・独・伊・日・中・韓の7言語の案内スタッフが各チェックポイントに配置された。従来はスペイン語と英語のみだった。
- 朝食・水分補給ステーションの無料化――高温対策として、参加者向けに水と塩分補給ドリンクの無料配布ポイントが増設された。2026年夏はスペインが観測記録開始以来最も暑い夏だったこともあり、熱中症対策は例年以上に強化された。
チケットの平均販売開始は前年比1週間早い1月初旬で、大会の3か月前には完売した。買い手の国籍別内訳(町役場発表)では、スペイン国内が約35%、英国が15%、米国12%、豪州8%、日本を含む東アジアが約7%、その他ヨーロッパが20%と、多国籍化がさらに進んだ。1990年代までは町民主体の祭りだったが、2020年代には外国人参加率が過半を超える構造は定着している。
環境と経済――トマトの由来、町への還元
ラ・トマティーナに使われるトマトは、すべてバレンシア州エストレマドゥーラ産の「業務用トマト(tomate para conserva)」で、規格外や熟しすぎで市場出荷できないものを、大会運営が農家から適正価格で買い上げる。廃棄予定だったトマトが再流通する仕組みで、環境負荷は一般的に想像されるより低い。祭りの後、路上を洗い流した水はブニョール川に流れ、酸性の高いトマト汁は路面のペイントや白壁の漂白効果があり、翌日には町の壁が例年より白くなるという逸話も知られる。
経済面では、2026年大会だけでブニョール町(人口約9,000人)に落ちる観光収入は推計約80万ユーロと町役場は見込む。周辺のバレンシア市(車で約40分)は宿泊需要が例年8月最終週に急増し、平均宿泊料金は前週比で約60%上昇する。バレンシア空港の到着便も同週は前年同期比で約15%増加した(AENA速報)。祭り単日の直接効果より、前後1週間の広域観光への波及効果のほうが大きい、というのが商工会議所の分析だ。
参加時の実用情報――日本人向けの現地案内
2027年以降の参加を検討する読者のために、実務ポイントを整理する。ラ・トマティーナは毎年8月最終水曜日に開催されるので、2027年は8月25日、2028年は8月30日となる見込みだ。
- チケットは公式サイト(tomatina.es)で1月から販売――15ユーロが基本料金、送迎バス付き・シャワー付きのパッケージは40〜80ユーロ。転売サイトの偽チケットに要注意。
- 宿泊はバレンシア市――ブニョール町内には宿泊施設がほぼ皆無。バレンシア市中心部のホテルまたはAirbnbが基本で、大会前日は市街地のホテルが軒並み満室になる。予約は3か月前までに。
- 持ち物は最小限に――スマホは防水ケース必須。トマトの酸で衣服が変色するので、捨てても惜しくない服装で。ゴーグルは強く推奨(トマトの汁が目に入ると強い痛みが出る)。カメラは水中撮影対応のもの以外は避けるほうが賢明だ。
- 参加後の洗浄――町の消防が主要交差点で放水ホースを提供する。着替えは事前にコインロッカー(3ユーロ)に預けておくのが定石。
- 交通――バレンシア市中心Estación del Norteからブニョール駅までCercanías(近郊電車)C3線で約1時間、往復6ユーロ弱。当日は臨時増便あり。ただし帰りは大混雑するため、往路より復路のほうがタフだ。
日本の読者への解説
日本の読者にとって、ラ・トマティーナは「奇祭」の代表格として知られるが、実際の中身は少しずつ様相が違う。日本の伝統祭りが神事から派生し、神社仏閣を中心とした共同体儀礼として続くのに対し、トマティーナは1945年発祥という比較的新しい「都市祭事」で、宗教的背景はほぼ持たない。むしろ発祥自体が偶発的な喧嘩の再演であり、その後の観光化・国際化のプロセスが、日本でいえば北九州の「戸畑祇園山笠」というより、青森の「ねぶた祭」に近い経路を辿った、というほうが実感に近い。
もう一つの注目点は、「食べ物を大量に投げる」ことへの倫理的な議論の位置づけだ。ラ・トマティーナに使われるトマトはあくまで規格外品・過熟品で、通常なら廃棄されていた食材である。この点、日本のフードロス議論との架橋も可能で、「捨てられるはずだったものを、祭りとして再流通させる」構造は、日本の各地の食フェスにも応用可能な発想だ。実際、香川県の「うどん県かがわ丸亀国際ハーフマラソン」の後夜祭でうどん玉の投げ合いをする案は毎年出るが、いまのところ実現していない。
2026年夏はスペインが観測記録開始以来最も暑い夏となり、熱中症死者が4,200人を超えた。その終わりに、水路と赤いトマトのカオスで町が一時的に温度を下げるトマティーナは、単なる観光名物以上の意味を帯びる。次の水曜日、ブニョール町は再び真っ白な壁に戻り、来年の8月25日水曜日に向けて、また静かに準備を始める。













