序論:脆弱な政権基盤が露呈した予算編成
スペインのペドロ・サンチェス首相率いる社会労働党(PSOE)と左派連合スマール(Sumar)による少数連立政権が、政権運営の正念場を迎えている。3年ぶりとなる本格的な国家予算案の編成に着手したものの、その第一歩である「財政安定目標」の議会承認をめぐり、カタルーニャ州の独立派政党「フンツ・パル・カタルーニャ(Junts)」が国民党(PP)、極右政党ボックス(Vox)と共に反対票を投じることを明言。これにより、予算編成プロセスの最初の関門での敗北が確実な情勢となった。この事態は、サンチェス政権が依存する不安定な多党間協力、いわゆる「議会の幾何学」の危うさを改めて浮き彫りにした。しかし、政権側は敗北を織り込み済みで、法的な対抗策を準備しつつ、任期を全うする強い意志を示している。本稿では、この予算を巡る攻防の背景と構造、そしてサンチェス政権の巧みな延命戦略を多角的に分析する。
背景:少数与党を支える「議会の可変的幾何学」
現在のサンチェス政権は、2023年の総選挙の結果、上下両院で過半数を確保できずに発足した少数与党政権である。政権の存続と法案の可決は、カタルーニャやバスク地方の地域政党の協力が不可欠であり、特にカルレス・プッチダモン元州首相が率いるフンツ党の7議席がキャスティングボートを握る場面が多い。サンチェス首相は、法案ごとに是々非々で賛成を取り付ける複雑な交渉を強いられており、この状況はスペイン政界で「geometría parlamentaria variable(可変的議会の幾何学)」と呼ばれている。今回の予算案は、この協力関係の最大の試金石となる。フンツ党は、サンチェス政権樹立の際には、カタルーニャ独立運動指導者らへの恩赦法制定を条件に首相指名投票で賛成した経緯がある。しかし、予算案という国家の根幹に関わる政策では、より具体的なカタルーニャへの財政的・政治的見返りを要求。フンツ党のジョルディ・トゥルル幹事長が「我々が受けた多くの鞭に対して、人参が足りない」と語るように、恩赦法だけでは予算案への賛成は得られないという強硬姿勢を崩していない。彼らは、予算案の交渉自体を拒否しており、政権への圧力を最大限に高めている。
予算を巡る攻防:フンツ党の拒絶と政府の対抗策
今回否決が確実視されている「財政安定目標」は、今後3年間の国と地方自治体の財政赤字の上限を定めるもので、予算案全体の骨格となる。これが承認されなければ、理論上、予算案の審議に進むことはできない。フンツ党に加え、最大野党の国民党とボックスも当然反対するため、否決は避けられない。しかし、サンチェス政権はここで立ち止まるつもりはない。現行法では、安定目標が否決された場合、政府は1ヶ月以内にもう一度、新たな目標を提示して採決にかける義務がある。政権は7月23日に2度目の採決を行う予定だが、これも否決される可能性が高い。ここで政府が用意しているのが、法解釈を駆使した「裏技」だ。政府法務局は「法律は2度の採決を義務付けているが、2度否決された後の手続きについては規定がない」という見解を示している。この法的空白を突き、政府は「議会の承認プロセスは尽くした」として、安定目標が未承認のまま予算案本体を議会に提出する構えだ。この場合、憲法の規定が優先され、地方自治体は原則として均衡予算(赤字ゼロ)を組むことを強いられる。これは、安定目標が承認された場合に得られるはずだった約58億ユーロの追加財源を地方が失うことを意味し、国民党やフンツ党が政権を握る自治体にも大きな打撃となる。政府はこれを交渉カードとして、反対派を揺さぶる狙いである。
敗北の中の「小さな勝利」:社会政策での得点稼ぎ
予算案という本丸で苦戦を強いられる一方、サンチェス政権は同日の議会で別の重要法案を可決させ、政権運営能力をアピールすることに成功している。これは、政権にとっての「酸素補給」とも言える動きだ。具体的には、高齢者や障害者向けの介護制度(依存法)の財源を強化するため、2026年に20億ユーロ、2027年に40億ユーロを追加で地方自治体に配分する政令の承認が見込まれている。さらに、介護費用の国家負担を恒久的に50%と定める法改正も進められる。興味深いことに、予算案には強硬に反対するフンツ党も、これらの社会保障関連法案には賛成する見通しだ。これにより、国民党とボックスが反対しても、法案は可決される公算が大きい。また、連立パートナーのスマールが提出した、国王への侮辱罪や宗教的感情の侵害、国家シンボルへの冒涜といった表現の自由を制限する罪を刑法から削除する法案の審議も前進する。これらの法案を通過させることで、サンチェス政権は左派・進歩的な支持層にアピールし、「我々は機能している」というメッセージを発信している。これは、予算案での敗北という大きな失点を、社会政策での得点で相殺しようとする高度な政治戦略と言える。
日本の読者への解説
スペインのこの政治状況は、日本の読者にとっていくつかの重要な示唆を与えてくれる。第一に、議会運営のあり方の違いである。日本では、自民党と公明党による連立与党が衆議院で安定した過半数を握るのが常態であり、予算案が政府・与党の方針通りに第一関門で否決されることはまず考えられない。予算案の不成立は即、内閣不信任や解散総選挙に直結する重大事態と見なされる。一方、スペインのように少数与党政権が常態化している国では、重要法案の否決は必ずしも政権の終わりを意味しない。サンチェス政権が見せるように、法解釈や他の法案での取引を駆使して、敗北を乗り越えながら政権を維持するしたたかな戦術が発達している。第二に、中央政府と地方の関係性の違いだ。日本では、国政において地方政党がキャスティングボートを握ることはほぼない。しかしスペインでは、カタルーニャやバスクといった強い地域ナショナリズムを持つ地方の政党が、国の予算や首相の進退を左右する力を持つ。これは、国家のあり方を巡る根本的な対立が、日常の政治駆け引きのレベルまで浸透していることを示している。フンツ党の行動は、単なる予算の分捕り合戦ではなく、カタルーニャの自治権拡大や独立という長期的目標に向けた戦略の一環なのである。最後に、国王への侮辱罪の非犯罪化を巡る議論は、日本の皇室と表現の自由を巡る議論とも比較できる。君主制を持つ国が、現代的な民主主義の価値観と伝統的な権威をいかに調和させるかという普遍的な課題を、スペインの事例は示している。このように、サンチェス政権の綱渡りのような政権運営は、一見遠い国の話に見えて、日本の政治システムや社会のあり方を相対的に見るための貴重なレンズを提供してくれる。













