序章:再び戦火に包まれるペルシャ湾
2026年6月に米イラン間で締結された歴史的な「覚書」がもたらした束の間の希望は、わずか数週間で打ち砕かれようとしている。世界の原油供給の約2割が通過する戦略的要衝、ホルムズ海峡で再び緊張が走り、米イラン双方による軍事攻撃の応酬が始まった。2月末の米・イスラエルによる違法な戦争開始と、それに続くイラン最高指導者ハメネイ師の殺害という衝撃的な事件を経て、一度は対話のテーブルに着いた両国。しかし、イランは海峡の支配権を交渉の切り札として手放すことを拒み、一方のトランプ米大統領は経済的圧力と軍事力による威嚇を強めている。ペルシャ湾の緊張は、世界経済全体を揺るがしかねない危険な段階に突入した。
背景:最高指導者の死と破綻寸前の和平プロセス
今回の危機を理解するには、ここ数ヶ月の劇的な出来事を振り返る必要がある。発端は2026年2月28日、米国とイスラエルが開始した軍事作戦だ。この作戦の初期段階で、イランの最高指導者アリ・ハメネイ師が殺害されるという前代未聞の事態が発生した。体制の根幹を揺るがす事件であったが、テヘランをはじめとするイラン各都市で行われた国葬には数百万人の市民が参加し、弔意は体制への支持表明へと昇華された。この国民的熱狂を背景に、イラン新指導部はむしろ強気の姿勢を固めることになる。
一方で、全面戦争へのエスカレーションを避けたい国際社会の仲介もあり、6月18日には米イラン間で和平に向けた「覚書」が締結された。この覚書には、イラン産原油の禁輸措置の一部緩和などが盛り込まれ、緊張緩和への一歩と見られていた。しかし、その核心部分であるホルムズ海峡の航行ルールについては、両者の溝が埋まらないままだった。ハメネイ師の葬儀がまだ終わらないうちに、イランが海峡を航行するカタールとサウジアラビアの船舶を攻撃したとされる事件が発生。これに対し米国は即座に報復攻撃を実施し、事態は一気に悪化した。イラン側は覚書の「露骨な違反」だと米国を非難し、米国側はイランの行動が原因だと主張。和平プロセスは開始早々、暗礁に乗り上げている。
ホルムズ海峡:イランの「大規模破壊兵器」という切り札
この紛争の中心には、常にホルムズ海峡の存在がある。イランにとって、この狭い海峡の支配権は、米国の圧倒的な軍事力や経済制裁に対抗するための最大の「非対称兵器」であり、欧州外交問題評議会の専門家が言うところの「大規模破壊兵器」に等しい。イラン革命防衛隊は4月以降、海峡を通過する船舶に対し、イラン沿岸に近い「安全な」航路を通るよう要求。これは、すべての船舶をイランの監視下に置き、いつでも攻撃可能な状態にすることを意味する。事実上、革命防衛隊の許可なしには海峡を通過できない状況を作り出そうという試みだ。
これに対し、米国はオマーン領海を通る南側航路を支持し、イランの管理が及ばないルートを確保しようと図ってきた。しかし、イランはこの代替ルートを断固として拒否。経済支援に関するより広範な合意が得られる前に、ホルムズ海峡という最大の交渉カードを手放すつもりはないという強い意志の表れだ。イランは、自国の繁栄と安定が、ペルシャ湾岸諸国、ひいては世界経済全体の繁栄と安定に直結していることを、海峡の支配を通じて誇示しているのだ。船舶への攻撃や海峡封鎖の脅威は、単なる軍事行動ではなく、世界経済を人質にとった高度な政治的メッセージなのである。
トランプ大統領の揺れる姿勢とエスカレーションの連鎖
この複雑な状況をさらに不安定にしているのが、ドナルド・トランプ米大統領の予測不可能な言動だ。NATO首脳会議が開催されているアンカラで、トランプ大統領は記者団に対し、イランとの覚書は「終わった」と述べ、「彼ら(イラン人)はゴミだ。病んだ、邪悪で暴力的な人々に率いられている」と激しい言葉で非難した。しかしその一方で、カタールなどを介した間接交渉が続く可能性も示唆し、その真意は測りかねる。
言葉だけでなく、行動もエスカレートしている。米国はイラン南部のブシェールやバンダルアバスなどにある防空システム、沿岸監視施設、ミサイル施設を標的に「強力な」空爆を実施。これに対しイランは、バーレーンにある米第5艦隊基地やクウェートのアリ・アルサレム空軍基地などを標的に報復攻撃を行った。軍事行動の応酬は、偶発的な衝突から本格的な戦争へと発展する危険性を常に孕んでいる。トランプ政権は覚書締結の善意のジェスチャーとして認めていたイラン産原油の販売許可も撤回しており、対話と圧力のバランスは完全に崩壊し、圧力一辺倒へと回帰しつつある。イラン側も「いかなる攻撃の後も、海峡は完全に封鎖される」と警告しており、一触即発の状態が続いている。
日本の読者への解説:エネルギー安全保障と中東外交の岐路
ホルムズ海峡の危機は、地球の裏側で起きている遠い紛争ではない。これは日本の経済と国民生活に直結する、極めて深刻な安全保障上の問題である。日本が輸入する原油の約9割は中東地域に依存しており、その大半がホルムズ海峡を通過する。もしこの海峡が封鎖されれば、原油の供給は滞り、ガソリン価格や電気料金の高騰は避けられない。1970年代の石油危機が日本経済に与えた打撃を想起すれば、その影響の甚大さは明らかだ。
この危機はまた、日本の外交政策に極めて難しい選択を迫る。日本は、安全保障の同盟国である米国と、伝統的に友好関係を維持してきた資源供給国イランとの間で、難しい舵取りを求められてきた。米国からは、航行の自由を確保するための有志連合への参加など、より踏み込んだ貢献を求められる圧力が強まるだろう。しかし、これに応じればイランとの関係悪化は必至であり、日本の独自外交の基盤を失うことにもなりかねない。かといって中立を保つだけでは、エネルギー供給路の安全確保という国益を守ることはできない。
今回の米イラン間の緊張激化は、日本のエネルギー安全保障の脆弱性を改めて浮き彫りにした。中東への過度な依存から脱却し、再生可能エネルギーの導入加速や、エネルギー供給源の多角化を真剣に、そして迅速に進める必要性を突きつけている。同時に、予測不可能な指導者の行動一つで世界が混乱に陥る現代において、日本が独自の理念に基づいた安定志向の外交をいかに展開できるか、その真価が問われていると言えるだろう。













