雨の多い「緑のスペイン」で何が起きているのか
スペインと聞くと、多くの日本人はアンダルシアの乾いた大地や、マドリードの強い日差しを思い浮かべるかもしれない。しかし、大西洋に面した北西部のガリシア州は、年間を通じて降雨量が多く、緑豊かな牧草地や森林が広がることから「España Verde(緑のスペイン)」と称されてきた。この雨の多い土地が今、前例のない水不足の危機に瀕している。2026年7月、ガリシア州政府は、州内の水供給状況が悪化しているとして、干ばつ「事前警戒(prealerta)」宣言の発令を検討していることを明らかにした。一部の自治体ではすでに州の決定を待たずして、庭の水やりやプールの利用、洗車などを制限する措置に踏み切っている。背景にあるのは、長期にわたる降雨不足と、40度を超える異常な熱波の襲来だ。伝統的にスペインの「水の貯蔵庫」と見なされてきた地域で起きているこの事態は、単なる一時的な気象現象ではなく、気候変動がスペイン全体の水資源地図を根本から塗り替えようとしている深刻な兆候である。
ガリシア州の気候は、本来であれば温暖な西岸海洋性気候に分類され、夏は涼しく冬は穏やかで、年間降水量は1,500mmを超える場所も珍しくない。この潤沢な水資源が、酪農や林業、そしてリアス式海岸でのムール貝養殖といった州の基幹産業を支えてきた。しかし、ここ数年の降雨パターンは明らかに変化している。冬から春にかけての降水量が著しく減少し、ダムの貯水率は危険な水準まで低下した。州内の主要な河川であるミーニョ川やシル川の水位は、この時期としては記録的な低さを示している。州政府が発令を検討する「事前警戒」は、干ばつ対策の第一段階であり、市民や企業に節水を促すものだ。これがさらに深刻化すれば、「警戒(alerta)」、「非常事態(emergencia)」へと移行し、農業用水や工業用水の大幅なカット、さらには家庭への給水を時間制にするなどの厳しい制限が課されることになる。これまで水不足とは無縁と思われていたガリシアの住民にとって、これは生活の前提が覆されるほどの衝撃であり、地域の経済社会システム全体が大きな試練に立たされていることを意味する。
スペイン全土に広がる水ストレスという現実
ガリシア州の危機は、氷山の一角に過ぎない。スペインは今、国土全体が深刻な「水ストレス」に苛まれている。特に地中海沿岸のカタルーニャ州と南部のアンダルシア州の状況は壊滅的だ。カタルーニャ州では、2023年から2024年にかけて観測史上最悪の干ばつに見舞われ、州都バルセロナを含む広範な地域で非常事態が宣言された。ダムの貯水率は15%を割り込み、農業用水は80%以上、工業用水も25%削減された。一時は、フランスのマルセイユから船で真水を輸送するという緊急計画が真剣に検討されるほど事態は逼迫した。幸い、2024年春の降雨で最悪の事態は回避されたが、問題が根本的に解決したわけではない。
アンダルシア州では、干ばつはもはや常態化している。ヨーロッパ最大のイチゴ生産地であるウエルバ県では、違法な井戸による地下水の過剰なくみ上げが、世界遺産でもあるドニャーナ国立公園の湿地帯を干上がらせ、国際的な環境問題へと発展した。オリーブやアーモンドの栽培も深刻な打撃を受け、生産量は激減し、オリーブオイルの価格は世界的に高騰した。こうした南部や東部の状況に対し、これまで北部のガリシア州やアストゥリアス州、カンタブリア州などは比較的安全と見なされてきた。しかし、今回のガリシアの事態は、その「安全神話」が崩れ去ったことを示している。専門家は、気候変動によって地中海地域の乾燥化が北上しており、スペインの伝統的な気候区分そのものが意味をなさなくなりつつあると警鐘を鳴らす。年間降水量が同じでも、その降り方が問題なのだ。長期間雨が全く降らない乾季が続いた後、短時間に集中豪雨(スペインでは「DANA」と呼ばれる)が襲う。このパターンでは、水は大地に浸透せず、洪水を引き起こしながら海へ一気に流出するため、水資源の涵養にはつながらない。洪水と干ばつが同時に深刻化するという、極めて厄介な状況が生まれている。
水不足がもたらす経済・社会への多角的影響
水不足は、単に「喉が渇く」という問題にとどまらない。スペインの経済と社会の根幹を揺るがす多面的な影響を及ぼす。第一に、農業への打撃は計り知れない。ガリシア州では、牧草が育たなければ酪農や畜産は成り立たない。飼料を輸入に頼ることになれば、生産コストは高騰し、多くの小規模農家が廃業に追い込まれる可能性がある。リアス・バイシャスなどの高品質な白ワインの産地でも、ブドウの生育に深刻な影響が出かねない。スペイン全体で見れば、水不足は食料安全保障上の重大な脅威だ。世界有数の農産物輸出国であるスペインの生産減は、国際市場にも波及する。
第二に、観光業への影響も深刻だ。ガリシア州は、夏の暑さを逃れる避暑地として国内観光客に絶大な人気を誇る。「涼しく緑豊か」というブランドイメージが、40度超の熱波と水の使用制限によって損なわれれば、観光客の足は遠のくだろう。ゴルフ場の芝の維持やホテルのプールの運営も困難になる。これは、年間8000万人以上の外国人観光客を受け入れるスペイン経済全体にとって大きな懸念材料である。特に、観光業がGDPの大きな割合を占める沿岸部や島嶼部では死活問題となる。
第三に、エネルギー問題との連関も見逃せない。スペインは再生可能エネルギーの導入に積極的だが、その柱の一つは水力発電だ。ダムの水位低下は、そのまま発電量の減少に直結する。実際、近年の干ばつ時には水力発電の貢献度が大幅に低下し、不足分を天然ガス火力発電で補う場面が増えている。これは、脱炭素化という国家目標に逆行するだけでなく、エネルギー価格の高騰を招き、国民生活や企業活動を圧迫する要因となる。水不足は、エネルギー転換の足かせにもなり得るのだ。さらに、こうした経済的・社会的な緊張は、必然的に政治問題へと発展する。限りある水資源をどの地域が、どの産業が優先的に使うのか。河川の上流と下流、農業地帯と都市部、そして州と州の間で、水をめぐる対立は先鋭化しつつある。
日本の読者への解説
スペイン、特に「緑のスペイン」ガリシア州での水不足のニュースは、遠い国の出来事と感じられるかもしれない。しかし、これは日本の未来にとっても重要な示唆と教訓を含んでいる。日本は世界的に見ても降水量が多い国であり、「水は安全でタダに近い」という意識が根強い。しかし、その実態は、急峻な地形ゆえに水の多くが利用されずに海へ流出し、季節や地域による降水量の偏りも大きい。毎年のように日本のどこかで渇水が発生しており、水資源は決して無尽蔵ではない。
スペインと日本の最大の違いは、水に対する社会的な危機感のレベルにある。国土の大部分が乾燥・半乾燥地帯であるスペインでは、水は古くから極めて貴重な戦略資源であり、その配分をめぐる争いの歴史も長い。そのため、節水技術の開発やインフラ整備への投資も積極的に行われてきた。例えば、海水淡水化プラントはカナリア諸島などで広く普及し、都市部では下水処理水を公園の散水や工業用水に再利用する取り組みも進んでいる。また、農業分野では、水の使用量を最小限に抑えるドリップ灌漑が広く導入されている。これらの「気候変動への適応策」は、今後の日本が水資源管理を考える上で大いに参考になるだろう。
一方で、スペインの現状は、技術やインフラだけでは気候変動の猛威に対応しきれないという厳しい現実を突きつけている。どれだけインフラを整備しても、元となる雨が降らなければ意味がない。今、スペインで問われているのは、水消費の大きい農業(例えば、輸出用の果物栽培)のあり方そのものを見直すべきではないか、という根本的な議論だ。これは、日本の食料安全保障にも直結する。日本はスペインからオリーブオイル、ワイン、豚肉(イベリコ豚)などを大量に輸入している。現地の水不足は、これらの生産量と価格に直接影響し、日本の食卓を直撃する。グローバルなサプライチェーンの中で、一見無関係に見える他国の気候問題が、実は私たちの生活と密接に繋がっている。ガリシアの干ばつは、気候変動がもはや「対岸の火事」ではなく、地球規模で連鎖する複合的な危機であることを、改めて我々に教えている。













