予測不能な「手のひら返し」
「スペインは完全に名誉を回復した」。2026年7月9日、米国のドナルド・トランプ大統領は、スペインに対して異例とも言える賛辞を送った。かつて同国を「見込みのない国」「ひどい同盟国」と公然と批判してきた人物からの突然の評価転換は、国際社会に驚きをもって受け止められた。この発言の背景には、スペインがNATO(北大西洋条約機構)への「多数の支払い」要求に応じたことがあるとトランプ氏自身が示唆しており、彼の取引を重視する外交姿勢が改めて浮き彫りになった。同盟関係を「コスト」と「利益」で測るトランプ流の外交が、欧州の主要な同盟国であるスペインをいかに揺さぶっているのか。その経緯と構造を深く掘り下げてみたい。
トランプ流「取引外交」の標的となったスペイン
トランプ氏のスペインに対する厳しい姿勢は、彼の大統領就任当初から一貫していた。その批判の核心は、常にNATOにおける防衛費負担の問題、具体的には「国内総生産(GDP)比2%」という目標の未達にあった。NATOは2014年のウェールズ首脳会議で、ロシアによるクリミア併合を受け、加盟国が2024年までに国防費をGDP比2%に引き上げるという目標に合意した。しかし、多くの欧州諸国と同様に、スペインもこの目標達成には程遠い状況が続いていた。
特に、ペドロ・サンチェス首相率いる左派連立政権下では、軍事費の増額は政治的に極めて難しい課題だった。社会労働党(PSOE)と、より急進左派のプラットフォーム「スマル(Sumar)」などとの連立は、社会保障や失業対策といった民生分野への支出を優先する傾向が強い。閣内には軍事費増額に公然と反対する閣僚もおり、サンチェス首相が増額の必要性を国際社会で約束しても、国内での予算編成は困難を極めていた。スペインの2024年時点での国防費はGDP比で約1.3%程度とされ、2%の目標には大きな隔たりがあった。この状況に対し、トランプ氏は「ただ乗り(free riding)」しているとして、名指しでスペインを繰り返し批判してきたのである。「ひどい同盟国」という辛辣な言葉は、こうした背景から生まれたものだった。
今回の「名誉回復」発言は、この膠着した状況が水面下で大きく動いたことを示唆している。トランプ氏が言及した「多数の支払い要求」が具体的に何を指すのか、両国政府から正式な発表はない。しかし、単なる将来的な防衛予算の増額約束にとどまらない、より直接的で具体的な「取引」があったと考えるのが自然だろう。考えられる可能性としては、①米国製兵器(例えばF-35戦闘機など)の大型購入契約、②スペイン国内にある米軍基地(アンダルシア州のロタ海軍基地やモロン空軍基地)の駐留経費負担の増額や機能強化への合意、③ウクライナ支援におけるスペインの追加的な財政負担、などが挙げられる。いずれにせよ、サンチェス政権が国内の政治的抵抗を乗り越えてでも、トランプ氏を満足させる何らかの譲歩を行った可能性が高い。
GDP比2%の壁:スペインの国内事情と安全保障観
なぜスペインにとって、国防費のGDP比2%達成はそれほどまでに困難なのか。その理由は、政治、経済、そして地政学的な国民の意識に根差している。
政治・経済的な制約
前述の通り、左派連立政権という枠組みが最大の足かせとなっている。フランコ独裁政権の記憶が残るスペインでは、軍や軍事費増額に対するアレルギーが国民の一部に根強く存在する。特に左派支持層はその傾向が顕著であり、彼らを支持基盤とする政党にとって、軍拡は票を失いかねない危険なテーマだ。また、経済的には、欧州の中でも特に高い若年失業率や、年金制度の持続可能性といった課題を抱えており、限られた国家予算をどこに配分するかという議論では、常に国防費は後回しにされがちである。「大砲かバターか」という古典的な問いに対し、スペインの世論は圧倒的に「バター」を支持してきた。
独自の地政学的認識
さらに重要なのが、安全保障上の脅威認識の違いだ。NATOの集団防衛体制が主眼に置くのは、東方のロシアからの脅威である。しかし、地理的に欧州の西端に位置するスペインにとって、モスクワは遠い存在だ。スペイン国民がより現実的な脅威として認識しているのは、むしろ南方の問題である。具体的には、ジブラルタル海峡を挟んだ北アフリカ(マグレブ地域)の政治的不安定、そこを拠点とするイスラム過激派のテロ、そしてアフリカ大陸から押し寄せる不法移民の波だ。これらの脅威への対処は、陸海空の大規模な軍備よりも、沿岸警備隊や国家警察、情報機関の能力強化が中心となる。そのため、NATOが求めるような戦車や戦闘機、ミサイル防衛システムへの巨額の投資は、国民の肌感覚としての「安全」には直結しにくい。ウクライナ侵攻によって欧州全体の危機意識は高まったものの、ポーランドやバルト三国が感じるような存亡の危機感をスペインが共有しているとは言い難いのが実情だ。
こうした国内事情を抱えながら、サンチェス政権は対外的にはNATO同盟国としての責任を果たすと約束し、国内では連立パートナーや支持層を説得するという、極めて難しい綱渡りを強いられてきた。今回のトランプ氏との「取引」は、この綱渡りの末の苦渋の決断だったのかもしれない。
揺らぐ同盟関係とスペインの苦悩
トランプ氏の賞賛は、サンチェス政権にとって一時的な安堵をもたらすかもしれない。しかし、中長期的には、スペインの外交・安全保障政策に大きな課題を突きつけることになる。まず、今回の「取引」の内容が明らかになれば、国内で激しい政治的対立が巻き起こることは必至だ。連立パートナーであるスマルは「米国への屈従だ」と批判を強め、政権運営が不安定化するリスクがある。最大野党である国民党(PP)も、取引の不透明さを追及し、政権の外交手腕を攻撃するだろう。
さらに深刻なのは、同盟関係のあり方そのものが変質してしまうことだ。伝統的な同盟は、共通の価値観(民主主義、法の支配など)や長期的な戦略的利益に基づいて構築される。しかし、トランプ氏の外交は、こうした理念よりも、短期的な金銭的・物質的な貢献を優先する。彼の評価は絶対的なものではなく、次の「支払い」が滞れば、再び「ひどい同盟国」のレッテルを貼られかねない。このような予測不能な関係は、同盟国としての安定した国家戦略の策定を著しく困難にする。スペインは今後、常に米大統領の顔色をうかがいながら、場当たり的な対応を迫られるという悪循環に陥る危険性がある。
欧州連合(EU)内でのスペインの立場にも影響が及ぶ可能性がある。フランスやドイツが主導する「戦略的自律」の動き、つまり、米国への過度な依存から脱却し、欧州独自の防衛能力を強化しようという構想に対し、スペインはこれまで賛同の立場を示してきた。しかし、今回のように米国との二国間取引を優先する姿勢は、欧州の結束を乱すものと見なされかねない。大西洋同盟(米国との関係)と欧州統合(EU内での連携)との間で、スペインは難しいバランスを取る必要に迫られている。
日本の読者への解説:対岸の火事ではない「トランプ・リスク」
今回のスペインの事例は、日本の安全保障と外交を考える上で、極めて重要な教訓を含んでいる。日米同盟を外交の基軸とする日本にとって、これは決して対岸の火事ではない。
日本とスペインには共通点が多い。両国とも米国と強固な安全保障条約を結び、国内に米軍基地を抱えている。そして、トランプ政権時代から、防衛費の増額と「応分の負担」を強く求められてきた。日本政府は防衛費をGDP比2%に増額する方針を打ち出しているが、その財源や国民的コンセンサスの形成など、国内にはスペインと同様の課題が存在する。
一方で、脅威認識には違いがある。スペインにとってのロシアが遠い存在であるのに対し、日本は中国や北朝鮮、ロシアといった軍事大国と直接向き合っている。この地政学的な切迫感の違いは、防衛費増額に対する国内の議論の質に影響を与えるだろう。しかし、本質的な問題は、トランプ氏の外交スタイルがもたらす同盟関係の不安定化である。
トランプ氏の「取引」の対象は、防衛費だけにとどまらない。駐留米軍経費の負担(日本の「思いやり予算」に相当)、貿易問題、為替レートなど、あらゆる分野が交渉のカードになりうる。ある分野で譲歩すれば、別の分野で称賛されるかもしれないが、その逆もまた然りだ。スペインが経験したように、ある日突然「最悪の同盟国」と罵られ、水面下での取引を経て「名誉回復」を宣言される、といったジェットコースターのような外交に日本も巻き込まれる可能性は十分にある。これは、国家としての尊厳や、長期的な国益に基づいた安定的な外交政策の遂行を著しく困難にする。
スペインの事例は、いわゆる「トランプ・リスク」への備えが、単なる防衛費の増額といったハード面だけでは不十分であることを示している。予測不能な要求に対し、何を譲り、何を断固として守るのか。国益の優先順位を明確にし、国内で幅広い合意を形成しておくことの重要性を、スペインの苦悩は我々に教えている。













