序論:分裂する欧州の移民政策
欧州連合(EU)の移民政策が、重大な岐路に立たされている。域内に流入する移民や難民申請者を、審査や送還のためにアフリカやアジアなどの第三国に設置した施設へ移送する――この強硬策が、今やEU内で多数派の支持を得る勢いとなっている。極右政党の躍進に危機感を募らせる各国政府が、次々と厳しい姿勢に転じる中、スペインのペドロ・サンチェス首相は「EUが共有すべき価値観に反する」として、この流れに敢然と異を唱えている。サンチェス政権は、EU内で孤立することも厭わず、人道的配慮と国内経済の現実を盾に独自の路線を堅持する構えだ。これは単なる政策対立ではなく、欧州統合の理念そのものが問われる深刻な亀裂と言えるだろう。
EUを「移民の要塞」に変える域外収容センター構想
現在、EU加盟19カ国が支持を表明しているのが、域外に移民の収容・審査センターを設置する構想だ。これは、EUに庇護を求めて到着した人々を、審査が完了するまでの長期間、あるいは出身国への送還が決定したものの実行が困難な人々を、EUの資金で第三国に建設した施設に収容するというものである。イタリアのメローニ政権がアルバニアとの間で試みた計画や、英国がEU離脱後に推進する「ルワンダ計画」がそのモデルとされる。これらの計画は、人権団体から「法的根拠が曖昧で、人権侵害の温床になりかねない」として、「EU版グアンタナモ」と厳しく批判されている。
この構想の推進者は、もはや右派や極右勢力だけではない。デンマークの社会民主党を率いるメッテ・フレデリクセン首相は、この構想の熱心な支持者の一人だ。彼女は「欧州外に送還センターを設けることが社会民主主義的な考えではないと、誰も私を説得できなかった」と公言し、2027年までの実現に自信を見せる。この背景には、欧州全土で極右政党が支持を拡大し、伝統的な中道左派・右派政党が選挙で苦戦を強いられているという厳しい現実がある。移民問題で強硬な姿勢を示すことで、極右に流れた支持層を取り戻そうという政治的計算が働いているのだ。次期EU中期予算(2028-2034年)では、この構想と関連経費に200億ユーロ(約3.4兆円)もの巨額予算が計上される可能性も浮上しており、計画が具体化しつつあることを示している。
「移民なくして経済なし」―サンチェス政権の現実主義と理念
こうしたEUの右傾化に対し、スペインのサンチェス首相は明確な反対姿勢を貫いている。彼の主張は、理念と現実主義の二本柱から成る。理念的には、人権を尊重せず、庇護希望者を厄介払いのように域外に押しやる政策は「欧州統合が掲げてきた価値観の根本的な否定」であると批判する。そして現実的な側面からは、移民がスペイン経済にとって不可欠な存在であることを強調している。
サンチェス首相は「移民がいなければ、スペインでは9万軒のバルが閉鎖され、5万の教室から生徒が消え、3つに1つの農場がなくなるだろう」と述べ、移民が労働市場や社会保障制度を支える重要な担い手であることを国民に訴え続けている。少子高齢化が進むスペインにおいて、移民の労働力なくして経済成長はあり得ないという認識は、経済界とも共有されている。この姿勢を象徴するのが、最近進められている大規模な不法滞在移民の正規化手続きだ。約120万件の申請が見込まれるこの措置は、すでにスペイン社会で生活し、働いている人々に居住・就労許可を与え、彼らを「市民」として正式に社会システムに組み込むことを目的としている。これは、移民を「脅威」ではなく「社会の一員」と見なす、他の多くのEU諸国とは真逆のアプローチである。当然、この正規化に対して、欧州委員会の保守派や欧州人民党(EPP)は「新たな移民を呼び寄せる『呼び水効果』を生む」と強く非難しているが、スペイン政府は「許可は国内に限定される」と反論し、一歩も引かない構えだ。
経済合理性と排外主義のジレンマ
欧州全体が直面しているのは、人口動態と経済の現実と、政治的な排外主義との間の深刻な矛盾である。EUの統計機関ユーロスタットの予測によれば、現在の傾向が続けば、2100年までに欧州の人口は現在より5300万人も減少し、大陸の人口の8分の1が失われる。出生率の回復が見込めない中、人口を維持し、経済を成長させる唯一の道は移民の受け入れであることは、多くの経済学者が指摘するところだ。
この矛盾は、オーストリア出身のEU委員(内務・移民担当)マグヌス・ブルンナー氏の発言にも如実に表れている。彼は一方で「もし今日、欧州への合法的な移住をすべて止めれば、20年後には我々の経済は9%から15%貧しくなるだろう」と、移民の経済的重要性を認める。しかしその同じ口で、「不法移民は原則としてEUを去ることを保証しなければならない。さもなければ我々の政策は信頼できない」と述べ、厳格な送還政策を主張する。これは、経済的な必要性を理解しつつも、極右勢力の台頭を恐れ、有権者に厳しい姿勢をアピールせざるを得ないという、現代欧州の主流派政治家が抱えるジレンマを完璧に示している。彼らは、移民排斥を掲げる極右に「外国人嫌悪の独占」を許さないために、自らもその土俵に乗って戦わざるを得ない状況に追い込まれているのだ。この点で、経済合理性を前面に押し出し、移民の貢献を公然と語るサンチェス首相の姿勢は、欧州では異例のものとなりつつある。
日本の読者への解説
欧州で繰り広げられるこの移民政策を巡る激しい対立は、対岸の火事ではない。深刻な人口減少と労働力不足に直面する日本にとって、多くの示唆と警鐘を含んでいる。日本の外国人材受け入れ政策は、これまで「移民」という言葉を避け、「特定技能」などの在留資格を通じて、あくまで管理された「労働力」として受け入れるという建前を維持してきた。庇護申請者の受け入れには極めて消極的であり、欧州のように多様な背景を持つ人々が陸路や海路で大量に流入するという状況とは異なる。
しかし、本質的な課題は共通している。それは、経済的必要性から外国人の受け入れを拡大せざるを得ない一方で、社会的な摩擦や国民の不安にどう向き合うかという点だ。欧州の現状は、主流派の政治家がこの問題に対して明確なビジョンや理念を示せず、極右勢力が煽る排外主義的な言説に迎合し始めると、社会全体の分断がいかに急速に進むかという実例を示している。サンチェス首相が「EUの価値」という理念を掲げ、経済的な貢献という実利を説くことで、排外主義に対抗しようとする姿勢は一つのモデルとなりうる。日本では、外国人受け入れの議論がややもすれば経済的・実務的な側面に終始しがちだが、どのような社会を目指すのかという理念や価値観に基づいた国民的議論が不可欠であろう。
また、スペインが約120万人もの不法滞在者を正規化しようとしている点は注目に値する。これは、すでに国内に存在する「見えない住民」を法的な保護下に置き、納税や社会保障の担い手として可視化する政策だ。日本でも、技能実習生の失踪やオーバーステイなど、非正規滞在者の問題は存在する。彼らを単なる「違反者」として取り締まるだけでなく、社会の実態に合わせて法的地位をどう扱うかという議論は、今後避けては通れないだろう。スペインの事例は、その是非はともかく、現実を直視した一つの大胆な政策オプションとして、日本の将来の移民政策を考える上で重要な参考となるはずだ。













