フランコ体制末期を抉る傑作の再演

スペイン映画史に燦然と輝く巨匠、ルイス・ガルシア・ベルランガ(1921-2010)。彼の作品が持つ独特の風刺的で辛辣、しかしどこか人間味のある作風は「ベルランギアーノ(Berlanguiano)」という固有名詞で呼ばれるほど、スペイン文化に深く根付いている。その代表作の一つである1977年の映画『La escopeta nacional(国民的猟銃)』が、俳優としても名高いフアン・エチャノベの演出により、マドリードのテアトロ・エスパニョールで舞台化され、大きな注目を集めている。物語はフランコ独裁体制末期、カタルーニャ出身の事業家が自社製品であるインターホンを売り込むため、政府高官や貴族が集う狩猟会に参加するところから始まる。権力者に取り入ろうとする男が、腐敗、性的取引、見栄と虚飾が渦巻く権力者たちの滑稽な世界に翻弄され、結局はすべての費用を負担させられるという筋書きだ。この作品が、公開から約半世紀を経た現代において、なぜ再び光を当てられるのか。それは、描かれている権力構造の力学と人間の愚かさが、驚くほど現代スペイン社会と共鳴するからに他ならない。

「ベルランギアーノ」― スペイン社会を映す歪んだ鏡

ベルランガ監督の作風を理解することは、現代スペインを理解する上での一つの鍵となる。彼の映画は、常に社会の縮図を、一つの限られた空間(『ようこそ、マーシャル様』ではアンダルシアの小さな村、『プラシド』ではクリスマスの街)に凝縮して描き出す。登場人物は常に大勢で、それぞれが自分の欲望のために喋り続け、事態は収拾のつかない混乱へと陥っていく。この混沌とした集団劇を通して、ベルランガはスペイン社会に根深く存在する個人主義、権力への媚び、そして見栄っ張りな国民性を、痛烈なユーモアとブラックな笑いで描き出した。その功績は絶大で、2020年末にはスペイン語の最高権威である王立スペイン語アカデミー(RAE)が、「ベルランギアーノ」を正式に辞書に加えたほどだ。その定義は「ベルランガ監督またはその作品に関連するもの」、そして「ベルランガ作品に特徴的な要素を持つもの」とされている。彼の作品は、フランコ体制下の検閲を巧みにかわしながら、体制の偽善や社会の矛盾を暴き続けた。今回の舞台化は、その精神が今なお有効であることを証明している。

舞台化で描かれる「変わらない権力者の姿」

演出家のフアン・エチャノベは、この物語がフランコ体制という特定の時代を描いたものではなく、「あらゆる権力」についての普遍的な考察であると強調する。彼が語る登場人物像は、現代のニュースで見聞きする人物像と不気味なほど重なる。「倫理観も銀行口座も空っぽな貴族。世紀の不動産投機(ペロタソ)を狙う開発業者。大臣の椅子と肉欲にしがみつく大臣。高価な毛皮のコートを着た愛人秘書。おこぼれで生きる庶子たち。偽善的な愛国者。宴会の費用を払わされる銀行家。そして、結局すべてを支払わされる一般市民」。エチャノベは、スペインでは「政権を握ったことのない者だけが、腐敗していないと胸を張れる」と皮肉を込めて語る。権力の座に就けば、誰もが同じ過ちを犯す可能性があるというのだ。1970年代に描かれた不動産投機、政治家と芸能界の癒着、公金を使った「個人的なビジネス」といったテーマは、民主化後のスペインでも繰り返し問題となってきた。物語の結末で、主人公である事業家がすべてのツケを払わされる姿は、「結局、損をするのはいつも市民だ」という、時代を超えた真理を観客に突きつける。

映画から演劇へ―演出家の挑戦と創造

ベルランガの映画を舞台化するにあたり、エチャノベは大きな挑戦に直面した。特に『国民的猟銃』は、ルイス・エスコバル、ホセ・ルイス・ロペス・バスケスといった伝説的な俳優たちのアンサンブルが魅力の作品だ。エチャノベは、出演する19人の俳優たちに、映画の俳優を「模倣しないこと」を強く求めた。代わりに、リズムと音楽性を重視した「風刺ミュージカル・コメディ」として再構築することを目指したという。これは、スペインの伝統的な喜劇である「サイネーテ」や「サルスエラ」(歌と台詞が交錯するオペレッタ)の手法を取り入れたものだ。また、公立劇場であるテアトロ・エスパニョールだからこそ可能な、19人という大規模なキャストを実現した点も特筆に値する。民間のプロダクションでは採算の都合上、数人の俳優が複数の役を演じることが多いが、エチャノベは観客の没入感を削ぐとしてその手法を避けた。それぞれのキャラクターを一人の俳優が演じきることで、ベルランガが描いた混沌とした権力者たちの「見本市」のような世界を、舞台上に鮮やかに再現しようと試みている。

日本の読者への解説

ベルランガの作風は、日本の映画監督で言えば、官僚や社会の欺瞞を痛烈なコメディで描いた伊丹十三監督の作品群と通じるものがあるかもしれない。『マルサの女』が国税局の査察官を通して人間の金銭欲を暴いたように、ベルランガは狩猟会という閉鎖空間を通して権力欲と偽善を解剖した。本作が描く「政官財の癒着」の構図は、日本においても決して他人事ではないだろう。政治家が支援者や企業関係者と会食やゴルフを重ね、そこで便宜が図られるといったスキャンダルは後を絶たない。その構造は、狩猟会というスペイン的な舞台設定を、日本の料亭やゴルフ場に置き換えれば、容易に想像がつく。 しかし、表現方法には違いがある。ベルランガの作品は、スペインの伝統的な文学様式である「エスぺルペント(esperpento)」の影響が色濃い。これは、現実を意図的に醜く、グロテスクに歪めることで、その背後にある真実をえぐり出す手法だ。登場人物たちは皆、滑稽で哀れな操り人形のように描かれる。この種の容赦ないブラックユーモアは、日本の商業作品では比較的見られにくいかもしれない。スペインが独裁政権という暗い時代を経てきたからこそ、社会の不条理を笑い飛ばすという文化的土壌が育まれた側面もある。この舞台は、単なる過去の映画のリメイクではない。それは、権力の本質は時代や国を超えて変わらず、それに対して市民がいかに無力であり、同時にそれを笑い飛ばすことで精神の自由を保ってきたか、というスペイン流の処世術を教えてくれる、現代日本社会への一つの鏡でもあるのだ。

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