歴史的転換点のW杯、メッシ後のアルゼンチン
2026年6月28日、北米で開催されているFIFAワールドカップは決勝トーナメント1回戦の熱戦が繰り広げられた。その中で世界中のサッカーファンの注目を集めたのが、アルゼンチン代表のスターティングイレブンだった。2022年カタール大会で悲願の優勝を果たし、代表チームから退いたリオネル・メッシの不在。それは誰もが分かっていたことだが、実際に彼の名前がないメンバー表は、一つの時代の終わりと、否応なく始まる新しい時代の幕開けを突きつけるものだった。この日の相手は、組織的な守備と鋭いカウンターを武器とする欧州の強豪デンマーク。リオネル・スカローニ監督が送り出した布陣は、メッシという絶対的な個の不在を「組織」で埋めようとする、明確な意志に満ちていた。新エースの座を託されたフリアン・アルバレス、中盤の司令塔として期待されるレアル・マドリードの至宝ニコ・パス、そして驚きをもって迎えられた、ディエゴ・シメオネ監督の息子ジュリアーノ・シメオネの左サイドバック起用。この一戦は、単なるベスト8進出をかけた戦いではなく、アルゼンチンが「メッシ後」のアイデンティティをいかに構築していくのか、その方向性を占う試金石となった。
スカローニ監督の賭け――「チョリスモ」の注入と新世代の抜擢
この試合の最大の戦術的トピックは、アタッカーであるジュリアーノ・シメオネを左サイドバックで起用した点に尽きる。アトレティコ・マドリードで父ディエゴ・シメオネの薫陶を受け、「チョリスモ」として知られる闘争心、規律、献身性を叩き込まれた選手だ。本来のポジションではない守備的な役割を彼に与えたスカローニ監督の狙いは明らかだった。デンマークの強力なサイド攻撃を封じ込めるため、戦術理解度が高く、無尽蔵のスタミナで上下動を繰り返せる選手を配置したのだ。これは、メッシがいた時代には考えられなかった選択だろう。メッシの攻撃力を最大限に活かすため、周囲の選手にはより多くのサポートとバランス感覚が求められた。しかし、絶対的な王者が去った今、チームはより現実的で、より守備的な強度を重視する方向へと舵を切った。これは、2022年大会優勝の成功体験に安住せず、チームの構成要素の変化に柔軟に対応するスカローニ監督の手腕を示すものだ。
中盤では、ニコ・パスの存在感が際立った。元アルゼンチン代表DFパブロ・パスを父に持ち、レアル・マドリードの下部組織で磨かれた才能は、メッシとは異なるタイプの司令塔像を提示した。ボールを保持して魔法のようなパスを繰り出すのではなく、より広い視野でピッチ全体を把握し、攻守の切り替えの起点となる現代的なMFだ。彼の冷静なゲームメイクと、フリアン・アルバレスのゴール前での嗅覚。この新しいホットラインこそが、今後のアルゼンチン攻撃陣の核となることを予感させた。エンソ・フェルナンデスやアレクシス・マック・アリスターといったカタール大会優勝メンバーが脇を固め、新世代が躍動するための土台を築いている点も、チームのスムーズな移行を支える重要な要素となっている。
苦しみながら掴んだ勝利と、見えた課題
試合展開は、予想通り厳しいものとなった。ボールポゼッションではデンマークが上回り、アルゼンチンは自陣でブロックを固めてカウンターを狙う時間が続いた。かつてのマラドーナやメッシがいた時代のような、華麗な個人技で局面を打開するシーンはほとんど見られない。観客席からは、もどかしさからか溜息が漏れる場面も少なくなかった。しかし、守備陣は集中力を切らさなかった。特にジュリアーノ・シメオネは、慣れないポジションながらも驚異的な運動量で相手のウィンガーに食らいつき、父譲りの激しいタックルで何度もピンチの芽を摘んだ。彼の献身的なプレーは、チーム全体に闘う姿勢を伝播させた。
試合が動いたのは後半68分。自陣深くでボールを奪ったニコ・パスが、素早い判断で前線へロングフィード。これに抜け出したフリアン・アルバレスが、GKとの1対1を冷静に制し、待望の先制点を挙げた。まさに、新しいアルゼンチンの勝利の方程式を象徴するようなゴールだった。堅守からの速攻、そして新エースの一振り。試合はこの1点を守り切ったアルゼンチンが1-0で勝利し、ベスト8へと駒を進めた。しかし、内容は決して楽観視できるものではない。攻撃のバリエーションの少なさ、メッシがいた時のような「理不尽な」打開力の欠如は、今後の強豪との対戦で大きな課題となるだろう。この勝利は、新時代の可能性を示すと同時に、偉大な先達が残したものの大きさを改めて浮き彫りにした一戦でもあった。
日本の読者への解説
メッシ後のアルゼンチン代表が見せた苦闘と変革は、日本のサッカーファンにとっても示唆に富んでいる。日本代表もまた、長年にわたりチームを牽引してきた本田圭佑、香川真司、長友佑都といった選手たちが第一線を退き、世代交代の真っ只中にあるからだ。特定の「黄金世代」や絶対的な個に依存したチーム作りから、いかにして脱却し、新たな強みを持った組織を構築するか。これは、どの強豪国もが直面する普遍的な課題である。
特に注目すべきは、ジュリアーノ・シメオネのサイドバック起用というスカローニ監督の大胆な采配だ。これは、選手の特性を深く理解し、既存のポジション概念に囚われずに最適解を導き出す、高度な戦術的柔軟性を示している。日本では、しばしば選手の「本職」にこだわる傾向が指摘されるが、ワールドカップのような短期決戦では、こうした奇策ともいえる大胆な決断が勝敗を分けることがある。選手のポリバレント性(複数ポジションをこなす能力)をいかに育成段階から高めていくか、そして指導者がそれを大胆に起用する勇気を持てるか。アルゼンチンの事例は、日本のサッカー界全体に問いを投げかけている。
また、ニコ・パスやジュリアーノ・シメオネといった「二世選手」が、偉大な父のプレッシャーを乗り越えて代表の中核を担い始めている点も興味深い。欧州や南米では、こうしたサッカー一家の存在は珍しくないが、彼らは単なる七光りではなく、トップクラブのアカデミーで厳しい競争を勝ち抜いてきたエリートだ。日本でも久保建英のような選手が世界で活躍しているが、今後、日本サッカーが真の強豪国となるためには、欧州トップレベルの環境で日常的に揉まれる若手選手が、さらに多く出現することが不可欠だろう。アルゼンチンの新たな挑戦は、日本代表が目指すべき未来へのヒントと課題を、同時に示しているのである。













