ポップスターを論じる哲学者の登場

ユダヤ系の家庭に生まれ、無神論者、アナーキストを経てカトリックに改宗した異色の経歴を持つフランスの哲学者、ファブリス・アジャッジ。彼が今、スペインの知識層から大きな注目を集めている。そのきっかけとなったのが、アクション俳優トム・クルーズを論じた近著『Tom Cruise y su misión: Imposible』(トム・クルーズと彼のミッション:インポッシブル)だ。一見、哲学とは無縁に見えるハリウッドスターを分析の対象とすることで、アジャッジは現代社会が直面する英雄性の喪失、テクノロジーへの盲信、そして父性の探求といった根源的なテーマを鮮やかに浮かび上がらせる。彼の分析は単なる映画評論ではない。トム・クルーズという大衆文化の巨大なシンボルを「時代の鏡」として用い、現代人の精神構造を解剖する試みなのである。

英雄不在の時代と「肉体」の復権

アジャッジによれば、現代は壮大な物語、すなわち「叙事詩」を失った時代である。かつて社会を一つに束ねていた共産主義やリベラリズムといった進歩主義的なプロジェクトが色褪せ、人々は何のために生きるのかという共通の目標を見失っている。このような時代に、なぜ『ミッション:インポッシブル』シリーズのような英雄譚が繰り返し消費されるのか。アジャッジは、それをドン・キホーテが騎士道物語に自己を投影したことになぞらえる。現実世界に英雄が存在しないからこそ、人々はスクリーン上の虚構の英雄に熱狂する。しかし、それは夢と現実の乖離、一種の「分裂症」に陥る危険性をはらんでいると彼は指摘する。

ここで重要になるのが、トム・クルーズという俳優の特異性だ。彼はCGに頼らず、自らの「肉体」を危険に晒してスタントをこなすことで知られる。アジャッジはこの点に、現代への強力なメッセージを読み取る。AIやアルゴリズムが支配を強め、人間の身体性が希薄になる現代において、クルーズの行為は「肉体」の復権を象徴している。それは、かつての工場に存在したガソリンの匂いを放つ巨大な機械という「ドラゴン」とは異なる。現代のテクノロジーは、スマートフォンという手の中の「人形」のように、我々の生活に溶け込み、気づかぬうちに精神を支配する。クルーズがスクリーン上で機械と格闘する姿は、この見えざる支配に対する、生身の人間の抵抗のメタファーとして機能しているのだ。また、アジャッジはクルーズの複雑な生い立ちや父との関係にも言及し、現代における「父性」の探求というテーマが、彼の人生と作品を貫いていると分析する。

テクノクラシーへの警鐘とAI時代の人間知性

アジャッジの現代批判の核心にあるのが、「テクノクラート的パラダイム」への懐疑だ。これは、テクノロジーが生み出した問題を、さらなるテクノロジーと管理(コントロール)によって解決しようとする思考様式を指す。例えば、AIが社会問題を引き起こせば、その対策としてより高度な監視AIを導入する。この自己完結したループは、問題を根本的に解決することなく、人間をますます管理された存在へと追いやる。アジャッジは、この管理への強迫観念が、同時にトランス状態のような「管理からの逃避」願望を生み出していると指摘し、現代社会が「管理とトランス」という両極端を揺れ動いていると見る。

この文脈で、彼は(架空の)ローマ教皇レオ14世による回勅『Magnifica Humanitas』(偉大なる人間性)に言及する。この回勅はAIについて書かれていると見なされがちだが、アジャッジによれば、その真のテーマは「AI」ではなく「人間の知性」、それも肉体に宿った知性である。カトリック教会が提示すべきは、全ての問題を解決する万能のアルゴリズムではない。むしろ、一人ひとりが自らの責任と自由において熟考し、識別し、決断し、行動する能力を回復させることこそが重要だと彼は説く。聖霊を「究極のアルゴリズム」と見なして思考停止に陥るのではなく、複雑な現実の中で悩みながらも、かけがえのない個人として決断を下すこと。それこそがAI時代に求められる人間性なのだ。

スペインにおける「カトリック・ブーム」の構造分析

アジャッジは、彼が教鞭をとるスペインの現状にも鋭い目を向ける。近年のスペインでは、特に若者を中心にカトリックへの回帰、一種の「ブーム」が見られる。しかし彼は、この現象を手放しで肯定しない。彼によれば、この回帰は理性的・神学的な探求(ロゴス)を伴わない、多分に感情的・感傷的な「信心深さ(religiosidad)」に留まっている場合が多いという。それは真の「宗教(religión)」とは異なる、と。

彼はこの現象を、スペイン社会の歴史的文脈の中に位置づける。フランコ体制後の急速な世俗化を経たスペインでは、フランスのようにカトリックの価値観が共和国の理念に昇華されることも、イタリアのように芸術文化として根付くこともなかった。残ったのは、より直接的で感情的な信仰の形だった。アジャッジは、胸にグアダルーペの聖母のタトゥーを入れた麻薬密売人を例に挙げ、理性なき信仰の危うさを指摘する。これは、ポストモダン状況とも関連している。壮大な物語が失われた現代は、あらゆる時代や文化を自由に選択できる「時代のスーパーマーケット」と化した。人々はヴァイキングやケルト人の文化をファッションとして消費するように、宗教的なシンボルや感情を消費する。この「ブーム」が単なる消費で終わるのか、それとも真の理性的信仰へと深化するのか、アジャッジは注意深い「識別」が必要だと訴える。

悪との共存と全体主義への抵抗

アジャッジの思想の根底には、悪を根絶しようとする衝動への強い警戒心がある。彼は聖書における「小麦と毒麦」のたとえを引用する。畑から全ての毒麦を抜き去ろうとすれば、必ず良い小麦まで傷つけてしまう。だから、収穫の時まで両者を共に成長させなければならない。この教えは、善意から出発したはずの全体主義が、なぜ悲惨な結果を招いたかを説明するという。悪を完全に排除しようとする「純粋さ」への渇望は、人間の自由そのものを破壊し、結果として全てを破壊する「全体主義の狂気」に他ならない。

アジャッジはこの洞察を、現代の激しい政治的対立にも適用する。例えば、「プロチョイス(中絶権利擁護派)」と「プロライフ(生命尊重派)」の対立において、相手を完全な悪と見なして罵り合うとき、我々は対話の可能性を破壊し、社会の分断という「悪」に加担してしまう。真の敵は、対立する相手ではなく、人間を分断させようとする悪そのものである。特に内戦の記憶を持つスペインにおいて、このメッセージは重い意味を持つ。相手を悪魔化するのではなく、自らの中にも悪の可能性があることを認め、対話を続けること。それこそが、現代に課せられた困難な使命だと彼は語る。

日本の読者への解説

ファブリス・アジャッジの議論は、遠いヨーロッパの哲学者の思弁に留まらない。現代日本が抱える課題を考える上でも、多くの示唆を与えてくれる。第一に、宗教と精神性の問題である。日本は高度に世俗化した社会でありながら、「癒し」や「パワースポット」に代表される精神的なものへの需要は根強い。アジャッジがスペインの「カトリック・ブーム」に見る感情的・非理性的側面は、日本のスピリチュアル・ブームの構造と通底する部分があるのではないか。体系的な教義や理性的探求を欠いたまま、心地よい感情やご利益だけを求める態度は、彼が言う「信心深さ」であり「時代のスーパーマーケット」での商品選択に近い。アジャッジの議論は、日本における精神性のあり方を再検討する上での鋭い視座を提供する。

第二に、テクノロジーと身体性の関係だ。AIやロボット技術が社会に深く浸透する日本において、アジャッジがトム・クルーズの「肉体」に見た抵抗のメタファーは興味深い。日本では、西洋的な「人間対機械」という対立構造よりも、鉄腕アトムに代表されるような共存や融合の物語が好まれてきた。しかし、スマートデバイスが生活の隅々まで浸透し、アルゴリズムが個人の選択を左右する現代において、我々は本当にテクノロジーの主人であり続けているだろうか。アジャッジの警告は、技術との関係を自明視してきた日本社会に対し、その支配=被支配の構造を改めて問い直すことを迫る。

最後に、壮大な物語の喪失という点も共通している。戦後の高度経済成長という明確な国民的目標が失われて久しい日本で、人々は何に希望を見出しているのか。アジャッジが指摘するように、虚構の英雄(アニメやゲームのキャラクター)への没入が一つの答えかもしれない。しかし、それは現実からの逃避に過ぎないのか、それとも新たな価値観を生み出す萌芽なのか。アジャッジの哲学は、答えを提示するのではなく、我々が生きるこの時代の複雑さを、より深く理解するための「問い」を投げかけてくれるのである。

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