スペインの政治が、いま戦後でも有数の混迷期に入っている。ペドロ・サンチェス首相が率いる中道左派の少数連立政権は、議会で安定した多数を失ったまま走り続け、その周囲では妻、弟、かつての右腕、そして元首相にまで及ぶ司法捜査が次々と表面化している。それでも政権は倒れず、総選挙は早くても2027年だと首相官邸は言い張る――。この一見矛盾した状況を、日本の読者に向けて一度に整理しておきたい。順を追って読めば、「なぜこれほど追い詰められて見えるのに、政権が続いているのか」が見えてくるはずだ。
はじめに大前提を一つ。本稿で触れる捜査の多くは、スペインの司法手続きでいう「investigado(捜査対象)」「imputado(被疑者)」の段階にある。これは日本語に訳すと「容疑者」に近いが、起訴でも有罪でもなく、推定無罪が完全に働く段階だ。捜査対象になること自体は珍しくなく、最終的に不起訴や無罪で終わる例も多い。本稿はあくまで「いま何が起きているか」を伝えるものであり、登場する人物の有罪を主張するものではない。この点はくれぐれも誤読しないでほしい。
過半数を失った政権が、それでも倒れない理由
サンチェス政権は2023年11月に発足した。社会労働党(PSOE)と左派連合スマール(Sumar)による連立で、両党を合わせても下院(定数350)で152議席にとどまる少数与党だ。発足当初は、カタルーニャ独立派のジュンツ(Junts、プチデモン氏の党)やエスケラ(ERC)、バスクのEHビルドゥなどの「外部協力」を一票ずつ積み上げることで、かろうじて法案を通していた。
その綱渡りが、2025年11月に決定的に崩れた。ジュンツが「この立法府は閉ざされた。今後の協力も交渉もない」と協力関係の打ち切りを公式に宣言したのだ。以来、政権は重要な採決で連敗を重ねている。歳出上限の設定、社会保護に関する政令、家賃規制の延長――いずれも野党第一党の国民党(PP)、極右ボックス(Vox)、そしてジュンツが組んだ「反対ブロック」に阻まれて否決された。極めつけは予算だ。2026年度予算の提出を政権は事実上断念し、いまも2023年度予算を延長し続けている。新しい予算を組めない政権は、いわば家計簿を更新できないまま暮らしているようなものだ。
普通に考えれば、これは「政権末期」である。日本であれば内閣不信任案が通るか、首相が解散・総選挙に打って出る局面だろう。ところがスペインでは、そう簡単に政権は倒れない。鍵は「建設的不信任(moción de censura constructiva)」という制度にある。
スペインの不信任案は、ただ「現首相を辞めさせる」だけでは成立しない。「次に誰を首相にするか」を同時に提示し、その後継首相に下院の絶対多数=176票を集めなければならないのだ。つまり野党は、サンチェス氏を倒すだけでなく、自分たちで次の政権の頭数を揃えなければならない。PP、Vox、ジュンツは「反サンチェス」では一致しても、「次の首相」では到底まとまれない。独立を志向するカタルーニャ政党と、中央集権を掲げる極右が同じ首相に投票することは、現実的にあり得ない。この高いハードルこそが、過半数を失った政権を延命させている最大の仕組みである。予算が通らなくても、延長予算で行政は回る。倒す数が足りなければ、政権は続く。スペインの少数政権が長持ちするのは、この制度設計ゆえなのだ。
首相を取り囲む、司法の輪
政権を本当に揺さぶっているのは、議会の数字よりもむしろ司法だ。2025年から2026年にかけて、サンチェス氏の身近な人物が次々と捜査の対象になっている。一つひとつは別々の事件だが、束ねて見ると「首相を取り囲む輪」のように映る。主要なものを整理する。
コルド/アバロス事件――パンデミック下のマスク調達をめぐる汚職事件で、サンチェス政権の元交通相ホセ・ルイス・アバロス氏と、その補佐官だったコルド・ガルシア氏が中心人物だ。最高裁での公判はすでに結審し、判決が目前に迫っている。検察はアバロス氏に24年、コルド氏に約19年半という重い求刑をしている。両氏は逃亡の恐れが高いとして2025年11月から勾留されている。これは捜査段階を越えて判決を待つ局面にあり、政権にとって最も重い時限爆弾だ。
サントス・セルダン氏――PSOEの組織書記(党の要職)を務めた人物。いったん収監された後に保釈されたが、治安警察の報告書によって捜査はむしろ拡大している。
ベゴーニャ・ゴメス氏(首相夫人)――影響力行使などの疑いで予審が進み、陪審裁判に進むかどうかの審理が行われた。首相の配偶者が捜査対象になること自体、スペインでも極めて異例だ。本人は一貫して関与を否定している。
ダビド・サンチェス氏(首相の弟)――地方公務の採用をめぐる事件で公判が結審し、判決を待っている。
そして元首相ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ氏――これが2026年6月の最大の衝撃だった。コロナ禍での航空会社プルス・ウルトラ救済(約5300万ユーロ)をめぐる事件で、サパテロ元首相が6月17日、被疑者として全国管区裁判所に約3時間出廷した。元首相が被疑者として出廷するのは、スペイン民主化(1978年)以降で初めてのことだ。本人は「私は完全に無実だ」と全面否定している。この事件の詳細はプルス・ウルトラ事件の解説記事にまとめてある。
ここに、すでに有罪が確定した別格の人物が加わる。検察トップである検事総長アルバロ・ガルシア・オルティス氏は、秘密漏示の罪で最高裁に有罪を言い渡され、失職した。現職の検事総長が有罪となるのは、これも民主化後で初めてだ。捜査対象にとどまる人物が多いなかで、これだけは「確定した有罪」であり、政権の任命責任が問われる点で重い。
繰り返すが、判決が確定したガルシア・オルティス氏を除けば、その他の人物は推定無罪の段階にある。それでも、これだけの数の身近な人物が同時に司法の渦中にあるという事実が、政権の体力を確実に削っている。
野党の攻勢と、読みにくい世論調査
こうした逆風を前に、野党第一党の国民党(PP)を率いるアルベルト・ヌニェス・フェイホー氏は攻勢を強めている。2026年6月には、Vox やバスク民族主義党(PNV)、ジュンツに対して「道具的不信任案(暫定政権をつくって即座に総選挙を行うことだけを目的とする不信任)」の構想を公然と持ちかけた。ただし、ここで前節の「建設的不信任」のハードルを思い出してほしい。6月20日時点で、この不信任案はまだ正式に提出すらされていない。あくまで圧力とレトリックの段階であり、提出されたとしても、ジュンツやPNVが乗らなければ数学的に成立しない。「不信任案が話題になる」ことと「不信任案が成立する」ことは、まったく別物だ。
では、いま総選挙をすればどうなるのか。ここで世論調査が登場するのだが、スペインの調査は読み方に注意がいる。政府系の社会学研究センター(CIS)だけがPSOEを首位に置き、独立系の調査会社(40dB、GAD3、Sigma Dos など)はそろってPPが4〜6ポイントリードし、PP+Voxで過半数に届くという結果を出している。この乖離は偶然ではない。CISの調査手法には党派的なバイアスがあると、スペインの主要メディアで公然と批判されている。日本の感覚で「政府の公式調査だから中立で正確」と受け取ると、実態を見誤る。
実際、すでに行われた地方選挙では右派の伸長が続いている。2025年末のエストレマドゥーラ、2026年春のカスティーリャ・イ・レオン、アンダルシアと、いずれもPPが勝利、もしくは第一党を維持した。ただしPP単独で絶対多数を取れた地域は少なく、Voxの協力を必要とする構図が定着している。これは全国レベルで政権交代が起きた場合に「PP単独政権ではなくPP+Vox」になる可能性が高いことを示唆しており、スペイン政治がより右に、より分極化する流れを映している。
カタルーニャと恩赦――もう一つの火種
忘れてはならないのが、カタルーニャ独立問題だ。サンチェス政権の発足を支えた取引の一つが、2017年の独立住民投票に関与した人々への恩赦(amnistía)だった。この恩赦法をめぐっては、二つの異なる論点を分けて理解する必要がある。
一つは法律そのものの合憲性で、こちらは2025年に憲法裁判所が大筋で恩赦法を支持し、決着がついた。もう一つが、亡命中の元カタルーニャ州首相カルラス・プチデモン氏個人に恩赦が適用されるかという論点だ。最高裁は、彼に問われている横領について「私的利益のためのもの」として恩赦の適用を拒否しており、逮捕令状はいまも有効なままだ。プチデモン氏は憲法裁判所に救済を申し立て、並行してEU司法裁判所でも審理が続いている。つまり「恩赦法ができた=プチデモン氏が安全に帰国できる」ではない。彼が帰国すれば、現時点では逮捕されるリスクがある。この未決着が、ジュンツの政権協力打ち切りの背景にもなっている。
一方で、同じカタルーニャでもエスケラ(ERC)は、州政府を率いる社会党系のサルバドール・イリャ州首相と2026年度のカタルーニャ州予算で合意するなど、地域レベルでは協調姿勢を見せている。「カタルーニャ独立派」とひとくくりにできないのも、この問題の複雑さだ。
これからどうなるのか
サンチェス首相自身は、6月18日にブリュッセルで「予算が通らなければ前倒し(総選挙)もあり得る」と含みを持たせた。だが翌6月19日、首相官邸はすぐに火消しに回り、「総選挙は2027年。前倒しがあっても数カ月の技術的なものにとどまり、2026年中の選挙は絶対にない」と打ち消した。任期満了は2027年7月。当面の焦点は、2027年度予算を通せるかどうか、そしてアバロス/コルド事件をはじめとする一連の判決がどう出るかに移る。
整理すれば、構図はこうだ。政権は議会で多数を失い、身辺は司法に囲まれている。それでも建設的不信任のハードルと延長予算という制度の壁に守られ、すぐには倒れない。野党は数が足りず、世論調査は読み手の党派性込みで割り引いて見る必要がある。動かない政局と、動き続ける司法――その緊張のなかで、スペインは少なくともあと一年、この不安定な均衡を続けていくことになりそうだ。
日本の読者への解説
最後に、日本から見たときに誤解しやすいポイントを整理しておく。
第一に、「被疑者として出廷=逮捕・有罪」ではない。スペインの investigado/imputado は「捜査対象」の段階で、推定無罪が働く。サパテロ元首相もゴメス首相夫人も、起訴や有罪が確定したわけではない。確定有罪はガルシア・オルティス元検事総長のケースのみで、これは別格だ。
第二に、「過半数を失った=即・政権崩壊」ではない。建設的不信任のハードルが高く、野党は倒す数を揃えられない。予算が組めなくても延長予算で行政は回る。少数政権が延命するのはスペインの常態であり、日本の「不信任可決→解散」のイメージはそのまま当てはまらない。
第三に、「不信任案が出る」と「成立する」は別の話だ。フェイホー氏の不信任案構想は、6月20日時点でまだ提出すらされておらず、提出されても他党が乗らなければ成立しない。圧力と実際の倒閣を混同しないことが大切だ。
第四に、世論調査は出どころで数字が変わる。政府系CISだけがPSOE首位という事実は、CISの党派性が現地で批判されている裏返しでもある。日本の内閣府調査のような中立性を前提にすると見誤る。
動かない政局と動き続ける司法。この二つのテンポのずれこそ、いまのスペイン政治を理解する鍵だ。今後の判決と予算審議の行方を、当サイトでも引き続き追っていく。












