序論:スペインに現れた「盗まれた選挙」の亡霊

スペインの政界で、民主主義の根幹である選挙制度そのものへの信頼を損なう、危険な言説が勢いを増している。中道右派の最大野党・国民党(PP)を率いるアルベルト・ヌニェス・フェイホー党首が、ペドロ・サンチェス首相率いる左派連合政権が「選挙工学(ingeniería electoral)」によって有権者を不正に作り出していると、証拠を示すことなく非難を始めたのだ。攻撃の的となっているのは、フランコ独裁政権下で国外亡命を余儀なくされた人々の孫の世代にスペイン国籍を付与する「民主主義の記憶法」である。この動きは、極右政党Voxも同調し、さらに過激な主張を繰り広げている。この一連の言動は、2020年の米国大統領選挙でドナルド・トランプ氏が展開した「選挙が盗まれた」という陰謀論と驚くほど類似している。本稿では、このスペイン版「選挙不正」論の背景、政治的動機、そしてそれが社会に与える深刻な影響を、日米の事例とも比較しながら多角的に分析する。

攻撃の的となった「民主主義の記憶法」とは何か

今回の論争の中心にあるのは、2022年に成立した「民主主義の記憶法(Ley de Memoria Democrática)」である。この法律は、1936年から39年まで続いたスペイン内戦と、その後のフランコ独裁政権(1939-1975)の犠牲者の名誉を回復し、歴史的正義を実現することを目的としている。その重要な柱の一つが、政治的理由で国を追われた亡命者の子孫に対する国籍付与の拡大だ。具体的には、これまで対象外だった亡命者の孫世代にも、スペイン国籍を取得する道を開いた。これにより、特にラテンアメリカ諸国に住む多くの人々が国籍を申請している。

国民党(PP)のフェイホー党首は、この制度を「サンチェス政権が自らに有利な250万人の有権者を『製造』するための策略だ」と批判している。つまり、新たに国籍を得た人々が左派政権に投票することを見越した、不正な選挙操作だと主張するのである。マドリード州首相で国民党の強硬派として知られるイサベル・ディアス・アユソ氏も、「資格のない者に国籍を与える領事や職員は違法行為に加担していることになる」と述べ、在外公館の職員を脅迫するかのような発言で追随した。しかし、これらの主張には具体的な証拠が一切示されていない。国籍付与は法律に基づき厳格な審査を経て行われるものであり、また、新たに国民となった人々がどの政党に投票するかは全くの未知数である。むしろ、歴史を遡れば、国民党自身もかつて在外スペイン人の子孫への国籍付与拡大を公約していた時期があり、現在の主張は明らかに党利党略に基づいたものと言える。

PPとVoxの競争:右派陣営の過激化

国民党がこのような根拠の薄い陰謀論に手を染める背景には、極右政党Voxとの熾烈な支持者獲得競争がある。2019年の総選挙で国政に本格進出して以来、Voxはフランコ体制を肯定的に評価し、移民排斥を掲げるなど、国民党のさらに右側のポジションを確立してきた。国民党は、Voxに流れる保守層の票を食い止めるため、自らも言説を先鋭化させざるを得ないというプレッシャーに常に晒されている。選挙不正論は、その典型的な現れだ。

Voxは、国民党の主張をさらに過激化させている。同党のホセ・マリア・フィガレド下院議員は、国籍付与プロセスを「スローモーションのクーデター」と呼び、在外スペイン人の郵便投票の禁止まで要求した。これは、多くの在外有権者から事実上、投票権を奪うに等しい提案である。国民党は、Voxに主導権を奪われまいと、自らも陰謀論の旗を振るが、皮肉なことに、こうした過激な言説はむしろVoxの存在感を高める結果につながっている。世論調査によれば、国民党の支持率が伸び悩む一方で、Voxは着実に支持を拡大している。これは、中道保守を自認してきた政党が、極右政党の土俵で戦うことの危うさを示している。有権者の不安や不満を煽る戦略は、最終的により過激で分かりやすい言説を掲げる勢力を利することになるのだ。

偽情報拡散の主役はSNSではない

この現象を理解する上で重要なのは、偽情報や陰謀論がどのように社会に浸透していくかというメカニズムである。一般的にはSNSがその主犯と見なされがちだが、近年の研究では、より影響力が大きいのは政党や既存のメディアであることが指摘されている。米ハーバード大学の研究によれば、2020年の大統領選挙における郵便投票をめぐる不正の言説は、SNS上のロシアのトロール部隊やクリックベイト目的のサイトよりも、トランプ陣営と保守系テレビ局Fox Newsによって遥かに効果的に拡散されたという。

政治指導者や信頼されている報道機関が発信する情報は、有権者にとって強い影響力を持つ。彼らが根拠のない疑惑を繰り返し報道することで、それは一部の有権者の心の中で「事実」として定着していく。スペインでも同様の構図が見られる。国民党やVoxに近いとされる一部のメディアは、在外投票で左派の社会労働党(PSOE)の得票率が国内よりも高かったという些細な事実を「疑惑」として大々的に報じ、不正選挙の印象操作に加担している。メディアがファクトチェックとして不正論を報じること自体が、結果的にその陰謀論を広めてしまうというパラドックスも存在する。民主主義社会において、言論の自由を担保しつつ、いかにして政治家やメディア自身による偽情報の拡散を防ぐかという、極めて困難な課題が突きつけられている。

日本の読者への解説

スペインで起きている選挙制度への攻撃は、遠い国の出来事として片付けられるものではない。ここには、現代の民主主義国家が共通して直面する課題と、日本が学ぶべき教訓が含まれている。第一に、主流派の保守政党が、極右勢力との競争のために過激なポピュリズムや陰謀論に手を染める危険性である。日本では、自民党が一強体制を長く維持してきたため、スペインの国民党のような熾烈な右派内競争は顕在化してこなかった。しかし、政治の流動化が進む中で、有権者の支持を得るために民主主義のルールそのものを軽視するような言説が登場しないという保証はない。制度への信頼という社会資本を一度失えば、回復は極めて困難である。

第二に、歴史認識問題が現代政治の争点となる構図である。スペインの「民主主義の記憶法」が攻撃の的となっているのは、それが単なる国籍付与の法律ではなく、フランコ独裁という国家の負の歴史をどう清算するかという、国のアイデンティティに関わる問題だからだ。これは、歴史教科書問題や慰安婦問題、靖国参拝など、過去の歴史の解釈をめぐって国内で深刻な対立を抱える日本にとっても示唆に富む。歴史問題が、未来志向の政策論争ではなく、党派的な対立を煽るための道具として使われるとき、社会の分断はより深刻化する。スペインの事例は、歴史と向き合うことの困難さと、それを政争の具とすることの危険性を改めて浮き彫りにしている。

最後に、選挙制度の信頼性の維持という点だ。日本では、選挙管理委員会の厳格な運営により、選挙プロセスの公正さに対する国民の信頼は比較的高いレベルで維持されてきた。しかし、スペインや米国の事例は、その信頼がいかに脆弱なものであるかを示している。政治家が自らの利益のために根拠なく制度を攻撃し始めれば、社会の基盤は揺らぎ始める。有権者として、また市民として、事実に基づかない扇動的な言説を見抜き、民主主義の制度を不断の努力で守っていく重要性を、スペインの現状は我々に教えている。

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